見出し画像

27|あるもので遊ぶ 蓬染めと藤蔓編み

味噌を仕込もうとか、スイカ割りしようとか、里に集まって一緒に遊ぶ子たちがいる。かわちゃんという一回り下の女の子と私で企画して、集まれる人が集まって遊ぶ。先生はいない、とりあえずやってみようの会。

5月には蓬の会をした。春といえば蓬。蓬はそこらじゅうに生えている。ほんとうは、蓬を摘んで、草餅をつくって、お昼には蓬のジェノベーゼやたんぽぽのサラダ、野草の炒め物をつくって食べて、蓬で草木染をする蓬フェスを予定していたが、コロナのなかで集って料理して食べるのはやめようということで、コンパクトに摘んで染める会になった。

集まってさっそく、大人で10人弱、子供が6〜7人くらいだったか、みんなでわらわらと蓬を摘む。子供も楽しいみたいで、じゃんじゃん摘んで、1時間で大きなポリ袋1つ分になった。

子供は摘むのが好きなんだと思った。その後の染め工程では集中力が持たず、ワーッと散らばって遊び始めてしまったけれど、摘んでるときは皆、一生懸命だった。採集が食料確保の中心だった時代なら、これが仕事だった。大人も子供もなくみんなで働いて、植物に、環境に、世界に、詳しくなって…その先に広がる知性に、私は憧れがある。この世にあるものを深く知る方向性の知性に、少しでも触れたいものだと思う。そのための先生は、もしかしたら子供かもしれない。

3歳になったばかりの我が子は、しっかり蓬とそうでないものを見分けて、熱心に摘み取っていた。まるで飽きないのは、私には見えていないものが見えているからか。

摘んだ後は、大きな鍋ふたつでぐつぐつと煮出して、染液をつくった。すごく良い匂いで、たちのぼってくる匂いに浸って、大人たちは癒されて、なんだか今日はもうこれでいいねえ、という感じになった。

蓬を摘んだら煮出して手浴足浴するだけで十分とも思った。そのお湯には色がついているから、布をいれたら布も染まる。それくらいのことでもいいような気がした。


肝心の蓬染は、驚くほどに染まらなかった。

持参する布は木綿で、と周知されていた。数日前に購入された「木綿」の出自が明らかなものは、未晒しも漂白されたものも色がついた。ただ、各々の家から持ち込まれた木綿のようにみえる布が、ほとんど染まらなかったのだ。

温度や濃度の違いもあったんだろうか。理由は複合的かもしれない。特定できない。ただ「木綿」として買われたものは染まっていたので、布の素材か加工に拠るところが大きいのではないかと推測された。

木綿らしき布の目に見えない多様性。この世には色々な布があって、ザ・ポリエステル、ザ・ナイロンの顔をしていなくても、木綿のようにみえても違うのか、染まりを防ぐ何かでコーティングされているのか。特定できない種類、方法、布のわからなさがあった。

そういえば、私が働いていた職場には草木染の体験工房があったのだが、染める資材は草木染め染料の会社が売っている、草木染専用のTシャツやストールで、持ち込みは不可だった。染色体験担当の職人が、持ち込みは避けたいのだと言っていた。

木綿を持ってきてねと言っても、木綿が集まるとは限らない。木綿と思いきや違ったり、独特な加工がされていたり。それはものだけみても判別できない、染めてみないとわからないことも多い。

で、染めてみて染まらない場合、染まらないことのショックと、じゃあこの布はなんなんだというモヤモヤが生じ、でも体験のお金はもらわないといけない、そんなの何も楽しくない、払い損な気持ち…。なんてリスクを考えたら、体験商品としては資材の持ち込みは避けたいのだった。

今回持ち寄りで草木染をやってみて、工房等でできる「体験」は、体験でも形になるように、商品として洗練されたものなんだと実感した。

そういえば体験の新商品をつくるときは、モニター体験を何回も重ねた。職人は器用だから、一般の人に何ができて何ができないかわからないので、ある程度工程が形になった段階で、あまり器用じゃない私がやってみて、へえそれができないんだねって改善点を見出して、改良していた。あれは、体験という商品をつくっていたのだ。わかっていたけど、商品として作り込まない場合にどうなるかは、知らなかったことに気づいた。こんな感じになるわけだ。

ただ、自分たちでやるぶんには失敗はなくて、学びしかない。やってわかる気づきがおもしろい。明らかに木綿然としている布が、木綿じゃないのか、だったら何なんだろうとか。布、多様すぎ、とか。


6月には、藤蔓をつかってカゴを編んだ。今年の藤は見事で、里山のいたるところで華々しく紫色の花が咲いていた。藤でなにかやりたいね、カゴ編めるかな、なんて話しているときに、ちょうど大家さんが「林道をつくるのに藤ツルが邪魔だからツルが欲しい人はどうぞ」と声をかけてくれた。

これも先生のいない、とりあえずやってみようの会。完成品の出来高は低く、10人くらいでやって、カゴになったのは半分くらいだった。

なるほど。これまで知っていた体験世界やWSは、つくづく、体験を提供いただいていた人為の賜物だったのだ。野生の体験界ではそう簡単にものがものにはならないのだね。

初めてやることがモノにならないのは当たり前。逆に、あと数回やれば、カゴも編めるのかも、という手応えがあったことが嬉しかった。今回はひとまずwebでみつけた「つくれそうなもの」をつくってみたが、つくれるのだとなれば、欲しいもののイメージも湧いてくる。たとえば洗濯カゴがぼろぼろだから欲しい。

なぜ人はカゴを編むのか。それは生活には容器が必要で、そこにツルがあるから。

ツルの収穫シーズンはツルから水分が抜ける秋。秋になったら山にツルをいただきにいこう。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?