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生活と、続いていくものの断片

2020.5.1

空に海に山、人の外側にある世界はこれまでと変わらないはずなのに、
人の社会は一変した。

わたしが住んでいる場所は普段からあまり人が歩いていないので、家の周りの景色に変化はない。いや、季節は春から初夏に進んでいる(その変化の方が今起きている人社会の変化より総体としてずっと大きいかもしれない)。でもほとんどの時間を家の中で過ごすことになったので、どこで何が起きていて、今どういう事態になっているのか、全体が掴めない感覚が強くなった。

全体が掴めないのはずっとそうだったはずだけど、報道される自分にも関わってくる内容と、日常の乖離のために、断片性がすごく意識される。

画面を通じて得られる情報に思うことは毎日色々あって、でもその反応の応酬はわたしの範囲を超えない。考えるほど自分の思考の癖や枠を感じて、同じようなことばかり考えてグルグルしていた。

そういう時に、意外にも今いい感じであるという人の仕事の話を聞くことがあった。それを聞いて、頭に違う風が吹いて、パっと晴れやかになるのを感じた。これはどんどんいろんな人の、「具体的なその人の話」を聞こうと思った。

世界的な対ウィルス防衛体制下においては、個人的なこと、どこに出かけてどこで過ごすといった生活や、病気や死というものが、数字の一つとしてカウントされ、過剰に社会的・道徳的意味を持つ。それを個に引き戻したいとも思った。大事なことは数の大小じゃなくて、数値化できる量じゃなくて、ひとつひとつの具体的なそのもののはず。

この事態が収束した後も、死なない限り、絶滅しない限り、人の生活は続く。今こうなっていることを忘れたくはないけど、すべては地続きだ。社会の様式は変化するかも知れないが、根本にあるものは変わらない。変わることにも、変わらないものにも興味がある。

とはいえここに載せていく話はすべて断片だ。言えないことも言いたくないことも、書かないこともある。話し言葉と書き言葉は違う。

それからあくまでも個人的なこと。その人が働いている領域や業種を代表する声ではない。

書き起こした時点で、過去のものでもある。その人は明日になったら違うことを考えているかもしれない。あとあと、あれは違ったなって思うかもしれない。これはずっと続いていく全体にくらべると、ほんとうに小さな小さな、その時はそう思っていたという断片でしかない。

言葉にするとそこで表そうとした何かはどんどんその型をすり抜けてもいく。“ああは言ったものの違うような気がする”こともたくさんある。気持ちは常に動いていて、最先端の「今」の状態からどう照らすかによって、過去の意味は変わる。

だからといって、断片的な過去のものに、真実がないわけではない。何かは必ずある。価値が低いとも思わない。それが誰かに影響して、何かのヒントになって、次の何かになっていって、生きていることは、そして死んだ後も、人と人はそうして響き合っていくものだから。

心が大きく動いたとき、昔の人は歌を詠んだ。わたしは和歌も俳句も思うようではないから、そんなかんじの「いまこのとき」を留めておくものとして、人の話を書いていきたいと思う。





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