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『LGBT差別禁止』の違和感

むかし、歌舞伎を母親と観に行った時に、音声ガイダンスが、織田信長と森蘭丸のような男性間の結びつきを「菊花の契り」と呼んだ、みたいなことを説明していた。肛門が菊の花ってことよね。ほー。と思った。

もとは下世話なサブカルチャーだったとはいえ、今はハイカルチャーの立ち位置にある歌舞伎が、堂々とそういう説明をする日本において、ニュースキャスターが「性的マイノリティの人」という言葉を使うことに、白々しさを感じるというか、よくわからない気持ちになる。

だって武将ってみんなそうだったんでしょう?(みんな、ではないのだろうが)みたいな。

武士間にあった男色を、衆道というらしい。男色を好む武将もいれば、戦地に女は連れて行けないから仕方なくとか、戦国時代の成人男性は今より筋骨隆々としていたから成人しきらない男性はより女性的に感じられたとか、積極的か消極的かはグラデーションだったのだろうし、偉い人による立場の弱い人の同性間の性的搾取ともいえるから、昔の方が先進的だったとか肯定的にいえることではないのだけど、のし上がるため積極的に利用された出世戦略(世阿弥とか?)でもあったらしく、精神的な結びつきをより豊かにした側面もあったと思うし、とにかく「性の生殖に限らない多様な意味合い」は昔から存在した、とはいえると思う。

わたしは産後、性欲や恋愛への興味がとんと薄れていて、いずれにしても性的なことをするにはけっこうな努力をしないと無理やなって感覚がある現在、ごく消極的に生理的に無理な相手を考えると、男性のほうが無理な人が多い気がする。にくづきのいいかわいらしいおばちゃんなんか、いいやん、くっついたら気持ち良さそうて思ったりして、要は男性か女性かじゃなくて、相手による、これは私が特殊なのか、意外と誰もがそんな感じだったりしないんだろうか。

社会の制約や思い込みを外した時には、パレートの法則の2:6:2で、6割くらいの人はライフテージや体調やその日の気分で両方いけたりするんじゃないか、異性愛か同性愛かは、絶対異性、どちらも、絶対同性、のグラデーションであって、グラデーションの一方の極に近い人が「性的マイノリティ」とされてるだけなんではと思う。わからんけど。

衆道は性的嗜好で、LGBTは性的指向、嗜好は動かせるもの、指向はどうにもならないもの、なのかもしれない。でも、嗜好が異性に固定的なものではないのだとしたら、「同性愛性」というのは実は誰もの中に内包されているといえるのでは。

だから、そんなに単純に差別できることではないと思うので、「差別禁止」「差別をやめよう」というときの、固定化されたマジョリティが差別されているマイノリティを救うような、多数派が少数派に権利を付与するような感じが、違うと思う。

差別をしてはいけない、のではなくて、差別をすることのほうが「間違ってる」。ほんとうは差別なんてできない。マジョリティなんていない。

動物には同性愛は溢れているらしい。同性同士で相手の時間を奪って繁殖のチャンスを奪うとか、技術が磨かれるとか、個体の適応性をあげる意味合いもあれば、個体だけよりもつがいになるほうが子育てが安定するという、社会的な意味合いをもつ同性カップルもいるらしい。(動物の多様な同性愛と超個体)

技術が磨かれること、子育てがしやすくなること、サピエンスには当てはまらないなんてこと、あるのかな。

「同性愛が広まったら足立区が滅びる」、「LGBTは生産性がない」といった主張に対して、個人の尊重、差別反対、存在に対して生産性を当てはめるのは低俗ってのはそうなんだけど、そういうことをいう人と同じ土俵に立っても、「多様な性の結びつきがある共同体の方が滅びにくい」し、「集団として子が生まれて生き延びる可能性も高まる」というのを立証する論文を探したけどすぐには見つからなかったが、自然科学でも社会科学でもデータで立証できそうな気がするのだよね。

どういった環境においても絶対そう、ではないと思うのだけど、結婚のコスパが悪くなってる、結婚が食い扶持と関係なくなってる(農家にしろ商家にしろ家庭が経済活動の場でもあるなら結婚にはもっと共同経営者的意味があったと思う)、むしろ自己実現を妨げるリスクになりうる、現代の先進国においては、多様な性の結びつきがある方が、共助のバリエーションが豊かになって、集団にとっても、利があるようになるのでは。だから先進国の多くの国で同性婚が認められるようになっているんではないかな(世界の同性婚:NPO法人EMA日本)。

たとえば、出生率をあげるために個人は生きているわけではないのだけど、同性婚が認められると、異性と結婚したくはないけど子どもは育てたい人が子育てしやすい共助のかたちがひとつ増えるから、出生率は上がる、

というか、60万もらえるからって結婚する人が増えるわけないやんと思うけど、同性婚が認められたら結婚する人は増えるだろう、その上で、ほかの諸制度との関連性のなかで、出生率が上がるように組み立てることは、ただ従来の結婚を推奨するより効果があるのでは。

差別から起きる当事者がこうむる不利益、侵害がある現実においては、差別をなくそうとすること、場合によっては差別を取り締まる法整備も必要なのかもしれない。

でももっと内側から、差別してること、差別感情自体がおかしかったって、思えることじゃないかなって。

だってみんな大好き信長だってさって、どうも思う。それが指向ではなく嗜好なのだったとしても(しかしその違いって本人でさえはっきり分けて自覚できるものではないのでは)、そこには当事者性が非当事者に開かれる可能性、性の多様な意味を巡るあれこれがあって、そんな単純に差別するなんて、できないものなんではないかな。

と、わたしは思うのだが、むしろ、自分の中にあるものだからこそ、差別したい人もいるのかもしれない。たとえば、自らが男色家であり、しかしそこには背徳感があり、嗜好でしかないという罪悪感があり、「みんながそうなる」可能性を実感しているからこそ滅びる危機感を持ち、差別しておさえつけたい、というような。

もちろん、差別する人がみんなそうだってことではなく、ただ中にはそういう人もいそうだなと。ある客観的事実があったとして、そこから「だから差別できない」と思うか、「だからこそ差別すべきだ」となるかは、両方ありうる。

後者を選ぶようになるまでの、その人なりの痛みや苦しみも想像できる。知らず識らずのうちにしてしまう、ないし、恐れの現れとしての差別は誰しもする、してる可能性があるけど、積極的攻撃的な差別というのは、ひとつの暴力で、暴力の背後には苦しみや痛みが隠れている。というところで、人間存在ないし、文明にとっての差別って何なんだろうという問題と、誰もが救われる、みたいな、差別の意味を無効化するような状態についても、考えてみたい。


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