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神様のせいにできないからのAI

ずっと抑圧生活を続けないといけないのなら、それで経済的に困窮する人が増え、自死する人も増え、親のストレスが増すことで子どもの虐待も増え、逃げ場がなくなり、介護施設での虐待も増え、運動機能が低下することで要介護状態になってしまう人も増え、きっと新しい病気も生まれてそれで苦しむ人も増え、それは医療崩壊を防ぎながらそれぞれに対応策を講じていくことであって、トレードオフと考えるのは間違っているが、でもトレードオフにならざるを得ないことじゃないかと思ってしまうので、そうなるなら、COVID-19に関しては自分の身体の対応にまかせたい。

わたしは、思想としてはそう思いたい気がする。

病院に行ってからのそれでは医療従事者の負担を増してしまうから、病院に行かない。しかしそれでは家族の負担をつくってしまう。さらにわたしがそういう思いに基づいて行動することは、友人知人にも関係する。わたしの命はわたしだけのものじゃないんだと思う。

そしてなにより子どもが独立するまでは、わたしはある限りの可能性を尽くして生きなければいけない、生きたい。

ということで、気がしてはみるものの、すぐに撤回する。じゃあ、何歳になったらそう表明できるんだろうか。わからない。ただ身体の自由が全く効かず生きるなら、自分の身体の判断に任せたいとは前々から思っていた。そこについての考え方を話し合っておきましょう、伝えておきましょうというのがAdvance Care Planning(人生会議、この名称すごく嫌いなんだが)だが、現代医療はほんとうに高度化しているから、具体的にどこまでの選択肢があるのかは調べないとわからないし、ざっくりした指針だけではやっぱり家族が困りそうだし、わたしが高齢者になる頃にはまたかなり変わっていそうでもある。樹海にいけばいったで樹海の汚名を補強することになってしまう。「すべての場所は「事故物件」である」、民俗学者の畑中章宏がそんなタイトルの文章を書いていて、それはほんとうにそうなんだと思うけれど。

こんな生活をずっと続けるならウィルスを受け入れる、そういう人が増えて、それが圧力になるのも嫌だと思う。たぶんそれは「ていねいな暮らし」的な圧力、規範になりそうだから。もちろん国に強要されるなんてもってのほか。受け入れてもいい、受けれいなくてもいい、ただただ本人の希望だけ尊重されたい。受け入れることが医療や医療に従事する人たちの想いを否定することにもならないでほしい。医療現場の混乱も招かないでほしい。なんていうのはやっぱり現実的ではないんだろう。

『楢山節考』を久しぶりに読んだ。この話のなかには神様がいた。おりんさんは山についてから、念仏も唱えていた。昔の人は神様を信じながら、うすうすいないことにも気づきながら、それでも神様への想いに支えられたり、辛いことを神様のせいにもできたんだと思った。ここぞというときは仏様も頼りにした。要所要所でうまく神様仏様をつかっていたんじゃないかっていう気がした。わたしたちにはそういう存在としての神様仏様がいない。

大規模な災害が起きた時、神も仏もないというような言い方をするけど、日本の神様は厄災ももたらすものであり、仏様が救ってくださるのは死後だ。信じれば浄土にいけるのであって、現世において何か良いことが起きるわけではない。ただ救ってくださることに感謝することで、現世における心が楽になる仕組みを考えた親鸞のそれは大発明じゃないかと、『嘆異抄』を読んだ時には思った。

神様も仏様も現実を変える力があるわけじゃない。でもわたしたちの心には働く。それは現実を変えることになる。でもわたしたちは神様も仏様も昔のようにうまく使うことはできない。

トレードオフするのは抑圧生活と医療崩壊ではなくて、抑圧生活と国家によるデジタル追跡なのかもしれない。感染してない検査結果と、体温などの健康状態と、位置情報の提出。それで問題なければ動いてもいいという。同意しないなら家にいろっていう。

はあ?ふざけんなって気がすると同時に、それで動いていいならまあべつにいいのかなって気もしてしまう。抑圧生活と医療放棄の選択はすごく極端で、どっちにしてもしんどい辛いものになるけど、デジタル追跡は危険性がありつつやりようによっては特に問題なくもできそうだと思える。だからこれは普及するだろうな。

わたしには神様や仏様にかわるものがAIになるんじゃないかってイメージがある。代わりはしなくても、AIに委ねるところが出てくるんじゃないかって。人は人だけで人を統治することができなくて、やろうとすると上手くいかない。独裁がはびこり、相互監視がきつくなる。だから何らかの超越的存在を必要とする。今は市場がその役割を負っていて、国がセーフティネットを張っている。でもそれぞれの限界が露呈する速度もたぶんいま加速している。

ならば土に戻ろう、自給しようという流れは個人レベルではやっぱりそれも加速するだろうけど、全体の仕組みがなくなることも考えにくい。

国家による追跡と思うと拒絶を感じるけど、国の誰かが見張ってるわけではなくて、国と結びついたシステムが判断を下すんだろう。機械に委ねるなんてと思うけれども、AIは人についてのビッグデータから成り立っているわけだから、単純な機械ともいえない、個人や個人の集まりである国を超えた超越的存在という感じもする。

ペストの大流行が教会の権威を失墜させて国民国家への移行がおきたみたいに、国からAIへの権力の移行というか、分散というか、そういうのが起きそう。googleとappleが共同で開発してるシステムができたらそれは世界中に普及するんだろうし、それになるかはわからないけど、今は国独自のアプリでもいずれは国外移動もしたいわけだから、インターネットみたいに世界中で同じシステムを使いつつ、それぞれの国の法律で運用することになるんじゃないか。

うろ覚えの記憶だけど、もともとコンピュータもインターネットも、AIをつくろうとしてできなかった回り道のなかで、副産物として生まれたものとどこかで読んだ。そしてAIをつくろうとした動機には、死んだ愛する人を蘇らせたい思いがあったのではないか、みたいなことも書いてあった。やっぱりどこか呪術的、宗教的だと思う。

それでも教会がなくなってはいないみたいに、国もなくなりはしないだろう。AIが神様に代わるのでもない、神様はとても包括的なものだったから、今はいろんな機能がその役割を分担していて、ただAIは超越的存在としての一部の機能を負うことになる。人はAIの判断に自分を委ねる局面を持つようになる。すでになってるのかもしれない、それがやっぱり加速する。

それで最終的には。もし人だけじゃない、生態系の全体がビッグデータにできたら、AIは人は狩猟採集時代に戻れって判断を下すんじゃないだろうか。


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