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生理は生理

生理は個性って、変なフレーズ。妊娠は個性。更年期は個性。排泄は個性。射精は個性…他の生理的現象に置き換えるとヘンテコ具合がよくわかる。個人差のある生理的現象は、個性、ではないよな。個性というのは、人と人の人間関係のある、社会の中で生起するその人らしさのことで、生理的現象はそれらと違う層にある(といっても無関係ではないけど)身体に備わっているもの。

そのままの形で、素で普通に話題にできるのがいいのだから、負のイメージにプラスのイメージを纏わせて価値の転換を図ったら違う。「プラスのイメージを纏わせないといけない」ことがおかしいのであって。パッケージも普通に簡素に事務的なほうがいい。プラスもマイナスもいらない。

マタニティマークの幸せ感を醸し出したイラストも、事務的に妊婦ですよってわかるプレーンなものの方がいいと思っている。事実以上の何かを訴えてるあのイラストが人の感情を逆撫でしてると思う。

考えてみれば、子ども用のオムツはオムツのパッケージのままシールを貼られて終わりで、普通に持ち歩いて運ぶのに、生理用品は紙袋なり不透明の袋なりに入るのも不思議なことだった。奇しくも昨日、生理用品を買ったら、レジ袋が廃止になったせいか、レジを通過して何の袋にも入れられなかったので、わたしもそのまま車まで運んで、べつにこれでいいんだよなあと思った。

生理は個性っていうプロジェクトの背景には、生理についてわかりあおう、人によっては軽くてサラっと過ぎるものだけど、人によってはとても辛いものであることを理解し合おう、もっというと、それで休む必要がある人がいることも理解しよう、つまり休んでもいいくらいのことなんだよ生理はってのがあると思う。

理解し合うことは大事だと思うのだけど、何かが違う気もする。話し合おう、理解し合おうってモチベーションの前提にはたぶん、理解してないと許容できないってメンタリティがあるのだが、「体調不良で休みます」でいい社会を目指す方がよくないですか。生理の辛さには個人差があるけど、どの範囲から辛いか、どこから休むかの域にも個人差があって、そこは、必ずしも話し合って相互理解し合うものではないと思うのよね。

生理だけじゃなくて、妊娠、出産、育児、介護、様々な病気、はたまたこれからは各種災害などなど、男女関係なく、人間のつくる社会と自然がそぐわない、ノーマルな働き方が乱れる場面は色々あるわけで、全部話し合って、相手のことを学び合って理解し合いましょうって、正しいけど、苦しいとも思う。話したくないことだってあるわけで、話せる空気は大事かもしれないが、話さなくても許容し合いたい。理解し合えなくても、わかりあえなくても、一緒にいられるほうがいい。

理由は何であれ休んでいい安心感があるほうがいいし、ストレスが減ると生理痛も緩和したりする。

過渡期の問題提起として、ポリコレも相互理解の促進も必要なことだとは思うのだが、突き詰めていく先には、辛いものがある気がしている。

冷凍食品の餃子は手抜きかどうかも、最終的には辛くなる話だと思う。

冷凍食品の夕飯は手抜きです、それが何か?でよくないですか。手抜きする日もある、それで作る人も食べる人もみんな笑って過ごせれば何も問題ない。そもそも、必要なのは栄養だから、それが手抜きかどうかはどっちでも良い。

ただ、わたしは手抜き賛成だけど、冷食は手抜きじゃないって擁護には違和感があって、冷食には便利さゆえの副作用もあるから、理解して使おうという感じで、食事=冷食が普通になっていいかというと、違うと思う。

家庭料理であれば素材の味やつくる人の状態によって出来栄えに日々ゆらぎがあるのが、冷凍食品は常に一定のクオリティで確実に美味しくあるように味付けされてるから家庭料理だったら使わない色々なものが入ってるし、味が似てるし、味付けも濃い。その味に慣れたら、子どもは家でつくった食事は食べなくなるかもしれない。ゆらぎがあって普通のものが、そうじゃなくて普通って感覚になるのも、料理がどうやってできるのか、素材はどこからくるのか、その過程がどんどんブラックボックスに入って、わからないものになるのも、怖いことだと思う。

料理は、ただ大変な作業なんじゃなくて、素材の美しさ、旬のものの美味しさを気づかせてくれる、喜びのある行為でもある。自然との距離が遠くなっている私たちが自然に触れられる場でもある。ものは腐る。火を入れると柔らかくなる、または硬くなる。色が変わる。食べることは、ほかの生き物の命を奪うこと。台所は、物理や化学や、この世の理を身体で学ぶ場でもある。

余裕がないときこそ、家事が頭のリフレッシュになることもある。ただの作業と思えることも、ただの作業ではない気がする。

わたしは日常の食事はそんなに豪勢でなくていい、だから手抜きで全然いい、というか一般的に手抜きとされそうな料理は別に手抜きじゃないと思ってるのだけど、手間を抜くなら、ご飯と味噌汁だけってほうが好き。でも冷凍餃子はおいしい。書いてたら食べたくなってきた。おいしくいただくこともある。

冷食が普通って生活もいいと思う。食事だけが生活の全てではないし、冷食といっても色々あるし。

でも社会としてそれがデフォルトになるのは違う。手抜きが良くないって考え方と、冷食にも企業努力と工場の人の愛情が詰まってるって擁護は、二重に辛いと思う。手抜きはいいけど、食事が工業化することには怖れを持っていた方がいいと思う。

生理も冷食も、末端で個を議論させてるベースの何かがある。それは一人倒せばいいっていうわかりやすい黒幕ではないのだけど、抗いたいのはそこだって思うのだ。



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