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note開始

自分がどうしたいか、何をしたいか

よく、こうやって文章にしていた時代があった。

日記がわりに、ほぼ、毎日。箇条書きにした欲しいもの、なりたい自分。

お風呂の中で、ぬんぬん茹だりながら書き留める。

そこには、精神的に幼かったのもあるけれど、自分がどうしたい、自分がお金を貯めてこれを買いたい、自分、自分、自分。のエゴイスティックな欲望しかなかった気がする。

それはとても生々しくて、微笑ましかった。


エルメスのバーキンや、クリストフルの栞や、ラルフローレンの香水など

それから10年以上経ち、手に入れたものも、興味が無くなったものもあるけれど


今の私のこのノートには、

仕事のためのたくさんの走り書きと、子どもの教育についてのあれやこれ。

我ながら、とても味気なく、つまらないなと思う。


救いがあるのは、物語を散文していることだ。

あの時の情熱や、見た初めての風景や、破片のように自分に突き刺さる感情を、

断片的に大切に大切に解凍するように思い出しては、熱っぽく 筆を走らせている。

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思えば、私は、ブログを閉鎖してインスタに移行するまでは、文章を書く「くせ」があって

その頃の私は、未完成で未熟で、何も手に入れてなかったから。今思うと、それは、とてもいい塩梅だった気がする。

ちゃんと人並みに、美容やファッションや「痩せなくちゃ」に興味があって、自分の中の激しい感情をきちんと慈しんでいたし、インターネットとの付き合いも、とても良いものだったように思う。

「昔は良かった」という言葉はとてもダサいけれど、今の、特にSNSなどは、私に合わないなと感じる。

昔のインターネットは、もっと今よりも俯瞰して真実を映していて、もっと温度が低くて、細やかなものだった気がする。

今では、何もかもが、キャッチーで、分かりやすくて、なんなら全てが文字解説付きで、圧倒的に声のでかいものの勝ちで、どこまでも視覚優位だ。

そしてそれが、無意識にでもインターネットで私自身が選んで取りにいっている現実なのだから、とても虚しいし、だいぶうまく付き合えていないと思う。

オンラインが架空の世界とは言わないけれど、でも私の生活は、〇〇のキャンドルが欲しい と書いていたこのノートの中にあるのだから、

少し、比重を、こちらに戻してもいいんじゃないかと思った。

誰かに読んでもらえること、目に留めてもらえることを期待して書いた言葉は虚しい。

誰にも見てもらえなかったとしても、しっかりと自分が自分をきちんと見つめている言葉を、今一度、思い出していきたい。


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