見出し画像

他人志向型人生とSNSと


本日、午後から仕事に出て、
他の病院と電話で交わす言葉にも、もう感染者が出ていることが当たり前に
会話の中に出てくる異常さにふと気づく。
この状況はこの1〜2週間で劇的に増えた。
異常なくらいの人手不足にいちいち落ち込んでいられない。
その中でできることを探す、探す、探す。
日中ガラガラのナースステーションを見ると、
本当に辛くなる。
なんとなく、全体的に異常で非日常なのに、
淡々と対処するしかない感じになってきた。
それ自体が異常なのだろう。
国からの発表でも、濃厚接触者の待機期間が短くなり、
少し、現実的な指標が出てきたのはよかった。

そんな中、帰宅して、ソファに座った時、
研究をする中で、文献に当たりすぎて、小賢しい嫌な女になってしまうのではないかと勝手に自分に揶揄しつつ、少し軽いものを読みたいと、曹洞宗の住職の著者の本に手を伸ばした。
「放っておく力」である。
最近、多いよね、「○◯の力」シリーズ。

短いエッセイのようなまとめていて、一つ一つ、繋がっていて、
独立している。読みやすい。
読む人によって捉え方が変わるんだろうな〜と読み進む。
その中で「いい人」の仮面を外す、というのと、
「平均」を調べない、というのが腑に落ちた。

ああ、他人と協働することは、他人軸で生きることではないのだなという当たり前のことを、再認識して、
ちょっと前に読んだ、デイヴィットリースマンの「孤独な群衆」を思い出した。

これって、確か、「働きがい」について調べていたときに、
誰のためになんのために働くのか、と考え続けた時に、行き着いた書籍だったような気がする。
要は、自分のためではなく社会のため、会社のためだけに生きていては幸せになれないのではないか、という思いと、
会社にエンゲージメントしたら実は幸せなのか?など、色々
考えた先に辿り着いた書籍だったような。
長くなるので、またnoteにまとめることにするけれど。
デヴィットリースマンは産業社会の特徴から、他人志向型の社会性格が確立した背景を説明し、他人の動向に注意して社会参加するうちに、他人指向型の人間になっていくという社会性格論を論じた人だった。
他人志向型の社会的性格がもたらす消費行動の傾向にも自らの純粋な効用のためではなく、他人志向のための消費傾向が見られることになっていることを指摘している、、と、Wikipediaがまとめてくれています(笑)
1950年ごろにそれを発表したこの本だけれど
これって現代のS NSに振り回されてしまう一定の世代や性格の人たちに見られる傾向なのだろうか。
「承認欲求」という言葉でよく表現されるけれど、リースマンの言葉の方がなんとなく腑に落ちる。社会の評価のみが自分を彩るのだ。

むしろ、SNS疲れを起こしている人の方が、まともなのかもしれないと思ってしまう。

もの、情報、出来事など全ての消費やインプットは
本当に自分のためになっているのかを、
常に問い直していく必要はあるな、と思ったりした本日でした。
と、また小賢しい嫌な女になっていないかしらと
自分を振り返っている私は、他人志向型になってるのかも(笑)。

さてみなさんは、自分のために生きていますか?
私はどうだろう。

いいね!
コメントする

コメント0件

コメントを入力…


サポートいただけましたら、関わっている人たちをさらに支援するために、サポートするための書籍や学習に使います!