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『父親探しのロングジャーニーと大切な人たち』

30年前に生き別れた父と
SNSで再会をしてから早ひと月。

父に会いたい。
父を探したい。

そんな寂しさの蓋が開いたのは
2年半前のこと。
教職員や男女共生部の方々に向けた
人権研修会の講師として
依頼をいただいたことがきっかけでした。

与えられた90分で
これまで教育委員会で発行させていただいた
人権冊子を元に、心の痛みについてお話を
することになっていました。
講話を組み立てる中で
どうしても自分の生い立ちに
迫らずにはいられなかったのです。

執筆しながら、
自分が生きてきた人生の中で、
1番触れられてこなかった扉が
ゆっくりと開き始めました。
5歳の頃から熱望してきた父の姿を
その温もりを確かめたくて
居てもたってもいられなくなりました。
はじめは、その『寂しさ』は
自分のところで止められると思っていました。
しかし無意識のうちに派生していくのです。
家族を巻き込み、
友人を巻き込み、
恩師を巻き込みました。
傷がどんどん広がっていくのです。
誰かに救ってほしくて
心の中で叫んでいました。

心理学に脳科学。宗教や占い。
愛着障害やアイデンティティに関する書籍や
漫画は何でも読みました。
精神科の門を初めてたたきました。
35にして発達検査も受けました。
双極性なのか鬱なのか、
境界性パーソナリティなのか、
自閉スペクトラム症なのか、
『なんでもいいから診断名をください。』
医者に生い立ちの全てを話し、
やや強引に自閉スペクトラム症の診断を
いただくことができました。
自分が何者か知れば混沌が晴れると、
そう信じていました。
知識だけが私を救ってくれる。
ここで完結できるはずだと思っていました。
この時点ではクリスチャンとしての自分は
完全に見失なっていました。

医者に行きながら、仕事をしながら、
育児をしながら、父親探しもコツコツと
頑張ってみました。そうして1年が経った頃、
大阪の市役所で、
『私共でお出しできる書類はここまでです。
次は島根に行ってください。』
と言われ、私は父を探すエネルギーを
完全に失ってしまいました。
これ以上、父を追いかけてはいけない。
探してくれるなと、突き放された気がしたのです。

半年後、美術の先生方の大会が
島根県出雲で開催されるという話が
舞い込んできました。
図工の研究会の後、先生方とお好み焼きを食べながら、父のことを打ち明けました。
話ながら涙が込み上げてきました。
図工研究会の友人が言葉をかけてくれました。
背中を押してくれました。
まるでクラスの生徒さんに向けた眼差しで
私の痛みに寄り添ってくれました。
当時2年生の担任をしていた友人たちは
私の中に小さな少女を見てくれていたのかもしれない。今から振り返るとそのように感じます。

「この大会が出雲で行われるってことは、
 お父さんを探していいってことなんだよ。
 一緒に大会に参加しよう。
 1日早めに島根に入ろう。
 一緒にちえちゃんのお父さんを探すんだ。
 探すんだよ!」

その日から友人たちとのLINEグループ名を
〝Go to 出雲〟と称し、
私はそこでお父さん探しの経過を
ほぼ毎日報告しました。
出雲大会の飛行機やホテルの詳細を
提示しました。
友人たちの熱量は本人より圧倒的に
勝っていました。
こうして父親探しを断念することが
許されない環境に置かれました。
それは友人たちの愛に満ちた、
実に心地よい環境でした。
結局、美術の出雲大会(現地参加)はコロナで
中止となってしまいましたが、
この大会のおかげで私は島根の松江市役所に
通じることができたのでした。

島根の松江市役所に
実の娘であることが分かる書類を郵送しました。
翌日、松江市から電話が入りました。

「慎重に審査を致しました結果、米光さんが実の娘さんであることが認められました。お父様の住所をお送りします。」

父の住所が送られてきました。
手が震えました。
本当にここに住んでいるのかな。
不安で何度も松江市役所に電話しました。

「お父様は確かにこちらにおられます。
一度手紙を送ってみてはいかがでしょう。」

電話を切った後、無我夢中で筆をとりました。
父は再婚していたので、娘としてではなく、
小さな頃に可愛がってもらった近所の子どもとして
御礼の手紙を書きました。父が分かってくれるようにと、当時の父と赤ん坊の時の私を描いた絵を1枚、そして美術のお仕事内容がわかる名刺を添えました。

父から大人の図工塾にメッセージが入ったのは
その2日後のことです。
Facebook上で涙ながらに手紙に手を置き、
私について語ってくれる父の姿がありました。
こんな奇跡があるのかと心が震えました。
この時初めて神様の愛が分かりました。
同時に父がずっと私を愛してくれていたこと、
15年前に母教会に電話をくれていたけれど、
すれ違っていたこと、
母が再婚し、新しい家庭を築き初めた
タイミングであったことから
周りの方々の配慮があったということ、
全ての誤解が解けました。
父は素晴らしい人でした。
私が描いていた通りの、
いや、描いていた以上に美しい人だったのです。
そして再婚した奥様も学校の先生であり、
特別支援教育のスペシャリストであり、
18年父を支え続けてくださっている
素晴らしい方だと分かりました。
奥様の支援で父も特別支援教育の最先端に立ち、
またディスレクシアの当事者として啓発活動をしていることも分かりました。
これから少しずつ父との歩みを証していきたいです。

そして、私を育ててくれた母の心のケア、
義理の父への感謝も忘れずに歩んでいきます。

神様は人智を超えたところで働かれるお方。
波紋のように広がる痛みに対する癒しは
神様にお任せすることにしました。
そう決心したタイミングで
母教会の牧師婦人が私を訪ねてくれました。
玄関で手を握り、祈ってくださいました。

父とFacebook で繋がれた12月12日は、
今まで生きてきた34年間で
最高のクリスマスとなりました。
この奇跡を1番に喜んでくれた友人たちは
私のかけがえのない師であり、友であり、兄妹です。
感謝しても感謝し尽くせないほど、
喜びが満ち溢れてくるのです。
心の器から溢れ出た喜びを、
私は恵みに変えたい。
これまで出逢ってきた人たちに
そして、これから出逢う人たちに
この恵みを送りたい。

ありがとう。
ありがとう。
本当にありがとう。

                  米光智恵

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