見出し画像

『習慣から得た気づき』と『経験から説くイメージする力』

写真:井上智
イラストと文:米光智恵

ミッションスクールでの気づき〜筆者にとっての習慣〜

キリスト教精神の学校(ミッションスクール)に赴任して早3ヶ月。今週の職場の聖句です。

あなたがたの広い心がすべての人に知られるようにしなさい。主はすぐ近くにおられます。
(ピリピ人への手紙4:5)

生徒の証とともにスタートする朝。
筆者の信仰心はとても幼いけれど、それでも、安心して授業に臨める毎日にとても感謝しています。出勤し、板書を終え、手をあわせ、心を整えてから生徒たちを美術室に迎えます。
この1日のスタイルは公立小学校に勤務し始めた15年前から続いています。3年前に勤めていた関西学院中学部はキリスト教美術に触れるきっかけをくれた学校です。荘厳な建築美と学舎に込められた
建築家ウィリアム•メレル•ヴォーリズの想い、
礼拝堂に響き渡るパイプオルガンの音色にヴォーリズの志が重なり心が震えました。

ウィリアム・メレル・ヴォーリズは、アメリカ合衆国に生まれ、日本で数多くの西洋建築を手懸けた建築家、社会事業家、信徒伝道者。 建築家でありながら、ヴォーリズ合名会社の創立者の一人としてメンソレータムを広く日本に普及させた実業家でもある。 ウィキペディア

この空間を素敵だと感じることができるのは、
筆者自身がクリスチャンホームで育ったからです。
朝の祈祷や礼拝で歌う賛美歌は幼少からの習慣であったわけですが、この習慣こそが自分という人間(アイデンティティ)を築いてくれたのだと言っても過言ではありません。

※キリスト教伝道を意図して執筆した記事ではありません。この先はあくまでイメージする力について書いています。

(水彩画:米光智恵)

『祈り』って一体なんだ?

『祈り』の定義とは一体何なのでしょうか。
世の中にはあらゆる宗教や多様な神観、スピリチュアルな観点があります。

たくさん祈っているから
信心深いから願いが聞き入れられるとか、
あまり祈らないから
なかなか事が上手く進まない。
そもそも神様なんているのか分からないし、
何にも信仰していないけど祈りたい。

こんな風にあれこれ理由づけして、
測ることのできない〝神様の愛の尺度〟を測ろうと
試みても苦しいだけです。
これでは祈ることが億劫になってしまいます。
『祈り』はもっともっと自然でいいと思うのです。
生まれ持った本能か、欲なのか。
人類の営みに息づいている習慣なのか。
分からないけど、分からないから祈ってみたい。
それでいいと思うのです。
ではどんな時に祈るのでしょうか。

自分に問う時、自分を奮い立たせたい時、
願うとき、あるいは誰かを想い、涙する時、
ただ無心になりたい時。

1日の中で目を閉じて、自分自身あるいは自分にとっての神との対話のひとときを持ってみる。
心穏やかにして自分をリサーチすることで得られる〝気づき〟ほど尊いものはありません。

(美術研究者のイラスト:米光智恵)

経験から説くイメージする力

『祈ること』=『イメージすること』だと筆者は捉えています。

イメージとは何なのでしょうか。ここからは筆者自身の2つの経験を元に言葉の意味を掘り下げていきたいと思います。

①美術教師としての経験から説くイメージ
②自閉スペクトラム症当事者としての
 経験から説くイメージ

(拝借したイラスト:児童作品)

①美術教師の経験から説くイメージ
あなたにとっての『イメージ』とは何ですか。

•思い浮かべる姿
•心象
•心理
•想像する
•妄想する

子ども達に聞いてみると、面白い答えが返ってきました。

ある子が「イメージは空気だよ」と答えてくれました。「どうして?」と聞くと、「目には見えないから」と答えてくれました。

(子どもの目線、イメージ:写真 井上智)

美術教育に従事していると
『想像imagination』『創造creativity』という言葉に専門性を重ねてしまいがちです。「想像力」や「創造性」は何もレオナルドダヴィンチのような能力やセンスを差して唱える言葉ではありません。
あちらこちらにみんなの想像は転がり、想像を経て創造されたものが世界に広がっています。毎日手に取る器や触れるモノに目を向ければ、私たちの営みは『イメージ』することの連続なのだと分かります。
イメージは空気』と答えてくれた子どものように柔らかい頭でイメージを捉えたいものです。

②自閉スペクトラム症当事者としての経験から説くイメージ
このイメージする力(想像力)は生まれ持った能力(特性)でもありますが、イメージを色や形に作り起こし、他者に提示し伝える能力は、経験の積み重ねによってこそ豊かに育まれる力とも言えます。ここではスペクトラム当事者である筆者がどのように学校という職場でイメージする力を発揮し、適応できたのか、授業のエピソードに生い立ちを交えて紹介します。

自閉スペクトラム症。この特性がある人は見通しがたたないことに対して恐怖を抱きやすく、予想しない出来事が起きるとパニックになり、頭が真っ白になりがちです。
自分自身がその特性を認識するか否かで生きづらさの差は大きく出ます。差が出ると言いましたが、これは脅かしているわけではありません。困りごとの原因が何なのか分からずに生活することは、自分にあったメガネをかけずに生活することと同じだと言いたいのです。磨りガラスのように曇った日常は見たい景色や出会うべき人を見えづらくしてしまいます。

(葛藤する当事者:イラスト 米光智恵)

「葛藤や苦しみは生きる上で大切な要素だけれど、不自由さは私の人生に必要がない。」

この気づきが筆者が35歳で精神科の門を叩いたきっかけでした。診断名は「偏見や差別という十字架」ではなく、「自分の人生をデザインするためのヒント」であり、「自由に世界を探索するための名刺やパスポート」だと捉えています。筆者に有効なパニックへの対処法は、与えられた任務を可視化することです。口頭ではなく、見えるように工夫するのです。例えば、自分のイメージを絵図や文書にかきおこすことです。とにかく書き起こし、描き起こし、可視化します。この積み重ねが臨機応変に対処できる力を育んでくれました。

(自由に世界を探索する子どものイメージ:
 写真 井上智)

先日も授業中に愛用の書画カメラが動作しなりましたが、対処法を幾通りも図に書き起こしていたので、アナログの業で難なく授業をやり遂げました。50人を数人のグループに分けて前に呼び、
「これぞ職人の業や。目で見てぬすめだ。」
といってササっと技法を紹介すると、生徒たちはとても喜んでくれました。現代の子にとってはICTを使わない方法は新鮮だったかもしれません。

仕事の可視化が全てのスペクトラム症当事者の方に有効なわけではありませんが、
大人の当事者においては、自分の幼少の経験をヒントに自分にあった対処法を見つけることが可能です。

筆者にとって有効な経験は舞台でした。

「この子は何をするにも時間がかかるなぁ。」

当時3歳だった筆者の特性に薄々気付いていた母は、幼い頃から舞台に立つ経験を沢山させてくれました。母子家庭で裕福ではないにも関わらず、私がやってみたいといえばチャレンジさせてくれました。母だけではなく、教会の先生方の支援もありました。

バレエに演劇、ジャズダンス、バンド、英語スキット、スピーチコンテスト。

(写真:筆者1歳の時。祖母のお店にて舞踊ごっこ。)

人前で自分を表現し、主張する経験を多く踏んだ私は、これでもかというほど台本(シナリオ)を唱えてきました。沢山練習をし、イメージを重ねてやっと本番に向かうことができたのです。
できるだけ幾通りものイメージの綱を頭の中に張り巡らせ、シナリオを口で唱えて、自分の耳に音をインプットし、本番に臨みます。
この習慣が現在も図工美術の仕事に生きています。

母として教師として支援者として思うこと

筆者は特性と付き合いながら美術教師をし、我が子の療育ならびに児童発達支援センターの指導員を続けています。

「お母さんはお母さんをしっかりやったらよいのです。」

という方にも出会いましたが、「自分には幾つもの顔、幾つもの学舎があってもよい」と思っています。人間の営みは必ずどこかでつながっているのですから。

         大人の図工塾管理人 米光智恵

(命を繋ぐ:イラスト 米光智恵)



この記事が参加している募集

自己紹介

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?