休みたい、の意味がなぜかスッと伝わらない
小さい子どもを見てる頃、日々は慌ただしく過ぎていた。
朝のうちに洗濯物を、子どもに呼ばれては中断しながら干し終わり、食後の食器を流しに片づけ、1人で行けば徒歩15分で行けるスーパーを子どもと片道30分以上かけて行き、動き回る子どもを見失わないようチラチラ位置を視認しながら食材を買いこみ、ゆうに5キロはある買い物袋を右手に下げ、疲れた〜と座り込んだ子どもは左手、えっちらおっちら帰って、食材を冷蔵庫や野菜箱にしまい、昼食を食べさせて、疲れて眠気でぐずるのをあやしていたら、もう日が傾いている。子どもがコトンと寝落ちしても、どのくらい寝てるだろう?いつ起きるかな?ってチラチラ見ながら夕飯作って、洗濯物取り込んで、そのうち食事とお風呂の時間で起こし、夜には絵本を読んで寝かしつけ、寝たら皿洗い、洗濯物をたたんで。
子どもは可愛い。無条件に可愛い。
でも家事に追われるといつもいつも相手はできない。
子どもを優先すると家事タスクが進まない。
両方をうまくこなせない自分に自己嫌悪。
というループ。そんな日々を過ごしながら、頭の片隅でふと願う。
1人になりたい
自分1人の時間がほしい
そう思う気持ちの反面、なんでだろう?子どもも可愛いし、夫もいい人なのに?と思うと、それをなかなか言い出せない。
どうして?と聞かれると思うと、しっくりくる答えが見出せない。
離れたい?子どものことが嫌いなの?
違う。
1人で出かけたい?家族といたくないの?
違う。
それでも何とか、塞ぎ込みそうなこの気持ちを変えたくて出る言葉と言えば、
喫茶店でゆっくりしたい…
温泉でも行きたいな…
になる。今思うとこれ、聞いた人には文字通りの意味にしか聞こえないだろうな。
じゃぁ、喫茶店行こうか。いっしょに!
温泉行こう行こう。みんなで!
もちろんそれはそれで気分転換になるからいいんだけど、
そうじゃないんだよな…
と首をひねりながら、私はいっしょに出かけていた。
もしかして、私がしたいのは、タスクでパンパンになった頭を一度リセットすることなんじゃないだろうか?
と、ぼんやり気づいたのはだいぶ子どもが大きくなってから。時間と予定と用事とルーティンに追い立てられてる日常から、自分をいったん離して、ただただ無になりたいんじゃないだろうか。
1人になりたいという願望は、
体力とメンタルが限界来る前に、この場からいったん離れた方がいいよ、という心のアラートなんじゃないだろうか。
そう、自分の何かモヤモヤしたものに、何となく名前のような、実体のようなものが見えてきたら、ストンと少し落ち着いた。家族が好きとか嫌いとかじゃないんだな、と。
そこからは、わりとスムーズに、ちょっと小一時間ほど1人になりたいんだよね、みたいなことを夫にも言えたし、わざわざ言わなくても、子どもの面倒を確保してから、今から30分家のことも何も考えない時間にしようってできるようになった。罪悪感なく。
まぁそれをしたからと言って疲れが吹っ飛ぶわけでもないし、リフレッシュでストレスの全部がゼロになるわけでもないけど。
心は軽くなる。また戻ってがんばろう、と思えるくらいには。
今は、育児はカップルの共同作業って言われるようになって、片方1人だけに負担が偏るのは見直そうって潮流になってるみたいけど、1人の時間がほしいって悩んでるパパさんママさんはいるんだろうか。こんな気持ちになるのはおかしいんだろうかって戸惑う人はいるんだろうか。
大丈夫。それが普通だと思います。
家族を愛するのと同じくらい、自分のことを愛してあげたらいいんだと思うよ。
偉そうなこと言ってますが、私自身、今でも全然上手いことできてません。
長々と書いてしまいました。最後まで読んでくださった方、ありがとう。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?