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ブラームス:間奏曲 op.118-2

 小学2年生の時だったと思う。母に美術館に行こうと言われた。それほど遠くないから自転車で。でも、すこしきれいな洋服に着替えて行きましょうと。自転車を買え換えてもらったばかりで遠出するのが嬉しく、私は言われるままに着替えて、母の自転車の後を追った。海沿いの埋立地のまっすぐな道を思ったより長く走って、到着したのは千葉県立美術館の東山魁夷展だった。

 東山魁夷はすでに日本を代表する日本画家で、白馬のいる風景が人気だった。青い森から出てきた真っ白な馬の絵はおとぎ話のよう、子供の私にもわかりやすく、気に入った。
 その美術展の図録は少し大きかった。居間の本棚からはみ出ていたので、別のものを取り出す時によく落ちた。留守番の時に所在無くひとりぱらぱらめくり、いつのまにか角がめくれていた。

 思い出とは不思議だ。知っているというだけで引き寄せられる。大人になって長野の東山魁夷美術館へ、東京で東山魁夷生誕100周年展に行った。何度となく静かな絵を見に行った。
 美術展の売店で、自分の近くにあったらいいと買った葉書は《残照》だった。戦後、東山魁夷は父、母を亡くし、最後の肉親だった弟を亡くし、初の日展に落選。《残照》は、失意のうちに房総半島の鹿野山に登り、出会った景色だという。諦念の世界とあった。

 当時、諦念、諦観という言葉になじみがあった。ブラームスの間奏曲(インテルメッツォ )op. 118-2を担当していたピアニストが、そう表現していたからだ。この曲をCDに収録したばかりで、「これは諦観の世界だと思うのです、その中でふっとわいたような光をつかもうと手を伸ばしては、はたと我にかえり、伸ばした手をもとに戻してしまう、そういう曲だと思うのです」と、インタビューや舞台で語っていた。

 ブラームスはたくさんのことをあきらめた人だと思うと、別のピアニストがインタビューで答えていた。あきらめるとはなんだろう。違う何かを追わないということだろうか。何と引き換えに何を心に決め、何を手放すことなのだろうか。

 心の奥の静かな湖に映されていくような回顧、逡巡、諦観。私には、それでも楽しかったね、忘れないよという声が聴こえてくる。暖かくて明るい陽射しの中でくすくす笑った日のことを、欠けているものは何もなくて優しさに包まれていた時のことを、忘れないよ、誰も知っている人がいなくなっても、ありがとう、さようならと聴こえる。そして最後に、私、もう行くねと聴こえる。


東山魁夷《残照》
https://www.higashiyama-kaii.or.jp/%e6%ae%8b%e7%85%a7/

東山魁夷《緑響く》
https://www.higashiyama-kaii.or.jp/%e7%b7%91%e9%9f%bf%e3%81%8f/

仲道郁代「ロマンティック・メロディー」インテルメッツォ イ長調 op.118-2





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