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夕日と串木野さのさ

 「串木野さのさでは“朝日を拝む人あれど、夕日を拝む人はない”って唄うわね。あれ、何ででしょうね」。いちき串木野の老舗喫茶店・ジャマイカでコーヒーを飲んでいる時、地元のご婦人方とこんな会話をした。

 東シナ海に面した港町・いちき串木野市。白い砂浜の海岸から望む夕日は、あたり一面が燃えるようなオレンジ色に包まれて息を呑むように美しいのだけれど、なぜだかこの土地に伝わる民謡・串木野さのさでは “夕日を拝む人はいない”と唄われている。いちき串木野の夕日にすっかり魅せられていた私は、こんなに印象的な夕日なのにどうしてなのだろうと気になった。

 串木野さのさは、いちき串木野の漁師の間で歌い継がれてきた労働歌だ。ある時は夜釣りの眠気覚ましに、またある時は景気づけに。即興で歌詞をつけて歌う掛唄で、その詞には、故郷と家族への思いが込められている。

 即興から生まれたので、“朝日を拝む人あれど、夕日を拝む人はいない”の歌詞に込められた思いは想像するしかないのだけれど、私は昔、夜の鹿児島港から6時間の船旅でトカラ列島・口之島へ行ったときの風景を思い出した。船から望むのは、360度見渡す限りの海と地平線。夜の真っ暗闇の中、月が煌々と輝き、人の気配を全く感じさせない大海原の静謐な美しさは、怖ささえ感じた。

 こんな広大な海の上で見るには、沈みゆく夕日は感傷的過ぎるのかもしれない。夕日の先に待っているのは夜の暗闇だ。ましてや家族や故郷と遠く離れている漁師たち。孤独さは感傷を加速させる。逆に、そんな漁師たちにとって暗闇を切り裂いて水平線の彼方から現れる朝日は、拝みたくなるような神々しさだったのかもしれない。希望を連れてきてくれるような輝きだったのかもしれない。詞を見ながら思いを馳せてみる。

 そんなことを考えつつ、夕方にいちき串木野の照島海岸に行ってみた。海岸には、ジョギングする人、犬の散歩をする人、部活のトレーニングをする学生の姿があり、夕日の風景はここで暮らす人のおだやかな日常に当然のように溶け込んでいた。海の上の孤独と大自然の美しさ、怖さに思いを馳せた後に見るこの素朴な風景は、日常に引き戻してくれるようでほっとした。串木野さのさの美しい詞は、私を少しだけ短い旅に連れて行ってくれたようだ。


このエッセイはいちき串木野のフリーマガジン『ALUHI』に収録されています。設置場所は下記の記事をご確認ください。遠方にお住まいでほしい方はALUHI編集部(aluhi2018@gmail.com)までお問い合わせをお願いします。


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