金魚
酷い夢を見ました。
夢の中で私は椅子に座っていました。おそらく木製の椅子で、座り心地は決して悪くありませんでしたが、クッションが敷かれておらず長時間座りっぱなしにしておくには不向きな椅子でした。特別縛られているわけでもないのに、私はその椅子から身動きが取れないでいました。首も、左右と上下にほんの少し動かせるだけでした。
そして、私の鼻先30センチの所に大きな水槽があって、そこに無数の朱色の金魚が泳いでいました。どうやら水槽は相当大きいようで、動かせる限りに首を動かしてみても、左右にも上にも無限に続いているのです。下はといえばテーブルになっていて、どうやらそのテーブル上に巨大な水槽が乗っているようでした。その水槽の中を泳いでいる朱色の金魚は、私の見る限りではみんな同じ種類の金魚でした。私は金魚に明るくありませんから、金魚の種類といってもリュウキンかランチュウか出目金か、あるいは朱色か白か黒かという区別しか付きませんが、水槽を泳いでいる金魚はそのリュウキンでもランチュウでも出目金でもない、朱色一色の、すらっとした、尾ひれが長い金魚でした。
私は、ただただ水槽を眺めていました。水槽の中には無数の金魚がゆらゆら泳いでいます。
「綺麗だろう」
そうどこかから声がかかりました。聞き覚えの無い男の声でした。振りむこうにも首が動きませんから、男がどんな風貌だったかは夢から醒めた今でもわかりません。ただ、私はその男の声に、綺麗ですね、と返しました。
「どうして綺麗だと思う」
そりゃあ、赤くてひらひらしていて綺麗じゃありませんか、そう返しました。何を聞いているのだろうと思いました。それに、金魚を見たら綺麗だと感想を言うのが相場だと決まっています。金魚というのは、決まって綺麗な魚なのです。近所の川に住んでいるでも、魚屋さんの軒下に並んでいるでもなく、金魚というのは水槽の中を泳いでいる観賞魚なのだから、決まって綺麗なものだと、そうではありませんか。
しかしそうして無数の金魚が泳ぐ様を見ていると、私はだんだん不安な気持ちになってきてしまうのです。その翳りは、ここから動けないという焦燥感に駆られてより一層私の心を浸食していきます。水槽に一滴墨を落としてしまえば、その濁りを取り除くのは難しいものなのです。
金魚は水槽の中を泳いでいます。それだけなのです。それ以外に何もしない。水槽の外に出ようとも、何か特別踊って見せようともしません。当たり前のことです。金魚に自立性や創造性を求めてはいけない。では金魚は何を考えてこの水槽の中を泳いでいるのだろうかと私は疑問に思いました。きっと何も考えていないのです。それは当たり前のことでしょう。ふと、私は最近読んだ小説を思い出しました。魚は絵を描かない、描こうと思わないから。そんな一節があったような気がしました。彼らはそれに疑問を抱かない。金魚だってそうです。水槽の中を泳ぐ、それ以外の生き方を知らないのです。餌を食べて、排泄をして、それ以外の時間は水槽の中を速く泳いだり遅く泳いだりする。それが金魚の生き方の全てなのです。
そう思うと、私はこの金魚という生き物が無数に泳いでいるこの水槽が恐ろしくなってくるのです。きっと、金魚一匹だけの金魚鉢なら、ああ可哀想な金魚、外の世界を知らないのねと、そう思うに留まったのかもしれませんが、ここには数百と思われる金魚が、みんな揃ってなんの意思も目的もなしに泳いでいるのです。何も達成することなしに。その悠々と泳ぎゆく金魚の魚眼と目が合うことはありません。まばたきもしません。それは魚眼というのがそういう仕組みで出来ているからなのだと私の脳は知っているはずなのですが、いまここに無数の虚ろが泳いでいるような気がしてならないのです。目が合えば合ったできっと恐ろしく思うでしょうが、さりとて数百の命が目の前を泳いでいるのに、ガラス一枚隔てたこちらに一匹として一目もくれてやらないというのは、どうにもまるでこちらが取り残されたような気になってくるのです。
「綺麗だろう」
と、やはり声が降ってきます。私はそれに、綺麗ですね、と返すことしかできません。なぜって金魚は綺麗なものだから。そういうものなのです。金魚は綺麗な生き物だと相場が決まっている。でも私は口とは裏腹に、このうようよ泳いでいる数多の金魚をもう綺麗だなんて思えなくなってしまっているのです。ガラス一枚隔てた向こう側に、朱色の幽霊が無数に漂っているのです。
「綺麗だろう、いっとう綺麗なものだけ選り分けたからね」
その声を聞いて私は更に恐ろしくなってしまいます。いっとう綺麗なものだけ選り分けたということは、ここに泳いでいる金魚は、きっとこの男が手に入れた金魚のうちのほんの一部なのです。ここよりもっと大きな水槽から、男が綺麗だと思う金魚だけをすくってここに持ってきたということなのです。じゃあ、残りの金魚はどうなるのでしょうか。金魚は観賞魚です。金魚というのは決まって綺麗なものだと相場が決まっています。不細工に産まれてしまった金魚はどうなるのでしょうか。野生で生きて行くこともできず、魚屋に卸すこともできない。不細工な金魚は用無しなのです。人間だったら多少不細工でも、芸や技術のひとつでも身に着ければ生きてゆくことができます。金魚にはそれが許されない。彼らの世界には芸も技術もないのです。だから、不細工な金魚は……。
そこまで考えて私は思考をやめました。これ以上の思考は私を不幸にしてしまう。このまま考え続ければきっと気が狂ってしまいます。でも、そんなのお構いなしに、男は話しかけてくるのです。
「金魚の寿命がいかほどか知っているか?」
いいえ知りません、と、そう答えました。とはいえ金魚なんて小さな魚、すぐに死んでしまうに決まっています。自然の世界では、体が大きくて頑丈なものほど長生きするのが常です。金魚のようなこじんまりして柔らかな生き物など、そう長く生きて行けないに決まっています。ここで泳いでいる数百の金魚にも、遠からず寿命が訪れる。
そう考えていると、目の前で一匹の金魚が動かなくなり、上へと浮いていきました。水槽は上へ上へと続いていてその水面は見てとれませんが、きっとあの金魚はもう死んでしまったのだろうと思いました。すると、男の手がぬっと右から現れて、おそらくそのさっき死んだ金魚の死体をガラスのこちら側、テーブルの上、私のすぐ前にそっと置きました。私がそれに唖然としていると、水槽からとぷんと音がして、網にすくわれた新しい金魚が一匹水槽に追加されました。
今すぐここから逃げ出したいと思いました。しかしそれは叶いません。ここに座り続けるということは、水槽の金魚が順繰りに死んでいくということであり、その度に私の目の前には朱色の死体が並べられ、それなのに水槽の中は金魚の総量を保ったまま、一般的に『綺麗なまま』と評される状態で継続していくのです。金魚はガラスのこちらに目をくれることなんてありませんから、ついさっき自分がすれちがった個体がこちらでもう息絶えていることも、自分の寿命がやがて訪れた時に、こちら側にまるで趣味の悪いコレクションみたいに陳列されることも、知らないのです。知ろうともしないのです。仮に知ろうと思っても、彼らには知るすべがないのです。
「綺麗だろう」
綺麗ですね、とそう返しながらも、私は金魚の水槽をもうほんのちょっとだって綺麗だなんて思えません。恐ろしくて恐ろしくてたまらない。これは拷問です。目の前で無数の虚ろがひらひら泳いでいて、こちらには目もくれない。私は彼らの顛末がどうなるか全部知っているのに、彼らにはそれを知る方法だってない。目の前に置かれたさっきの金魚から生臭さが漂ってくるような気がしました。
「綺麗だろう」
それでも金魚は綺麗なものと相場が決まっているのです。それ以外の感想は普通ではない。金魚を沢山ひとつの水槽で飼うことは難しい事であり、珍しい事であり、朱色の長い尾ひれがひらひら動く様はきっと『綺麗』だという言葉が相応しいはずなのです。
「綺麗だろう」
綺麗ですね。
「綺麗だろう」
綺麗ですね。
そうして私は目を覚ましました。
起きてもなお、目の前に朱色の尾ひれがちらつくような気がしました。
来世はどうか、金魚以外でありますように。