哲楽の基礎的対話

俺の話が通じた喜び感ひしひしと。ああ、長年続けてきた甲斐があったってもんだなぁ。

   ※  ※

Fukurou Shiroi
も少しわかりやすく短く翻訳親切な方お願いします
一言ですむんじゃないかなとおっています。

千田 芳嗣
形而上と形而下というのは、哲学に興味がない人には馴染みにくい概念だからなぁ。これのことでしょうか?

Fukurou Shiroi
千田 芳嗣 さん、それです!

千田 芳嗣
ざっくりした言い方すれば、

形而下:現実に存在する物質
形而上:現実には存在しないけど、想像や妄想することはでき、これを用いるといろいろ便利になる。

想像:現実と何らかのつながりを持つ思考
妄想:現実とは全く関係がない思考

   ※  ※

俺なりの七面倒臭い言い方は【哲楽基礎】より引用しときます。

自然:物の総体(形而下存在)
人工:物に文化を働きかけた物
人間:自然の一部であり、言語を生成し、文化を変容しうる
文化:諸個人の表現が集団に影響を及ぼし、また、集団の地域性・時代性が個人の表現に制約を与え得る。つまり、文化は個人と集団の相互干渉性を持つ(形而上)

人間は、自然の一部として存在し、文化を変えることができる。つまり、形而下存在であり、かつ、形而上を併せ持つ概念なのです。古代ギリシャ時代から続く2つの考え方「存在と変化」を体現し、二重性を持つものです。光の二重性(粒子と波)同様のものであり、このことを理解することは難解です。
量子物理学者は、シュレディンガー方程式とハイゼンベルグの運動方程式(数学的には等価)を受諾することで光の二重性を受容しなければなりませんが、一般人にとってはイメージしにくい概念です。
これと同様の難解さを「人間という概念」は持っているわけです。つまり、イメージはしやすいが、方程式は発見し難い、あるいは、発見され得ないだろうという意味での難解さ。

   ※  ※

人間社会は「言語・貨幣・モノ」の3種が流通しています。これらが滞りなく巡っていれば、何の問題も生じません。
モノは「自然物・人工物・概念」を指します。
貨幣は「信用概念の現物化」です。ハイパーインフレに陥った貨幣は信用を失墜し、他の通貨に代替しています。現代ならば、その地位は米ドルが主流となっています。
言語と貨幣と概念は形而上。物は形而下存在です。形而下存在の有限性を考慮した無限の制御が行われる必要があります。
産業革命以降、人類活動は爆発的に拡大し、地球の有限性という限界が見えてきました。つまり物の有限性を実際に考慮しなければならなくなった。
物の交換尺度として使われている貨幣は、形而上としての無限として振る舞ってきましたが、物の有限とともに貨幣もまた有限としての取り扱いに変更しなければなりません。
これは、つまり経済学の枠組みの変更を促します。

物理学において、「光速度の一定」という制限を考慮することで、ニュートン力学的世界観の枠組みを変更しなければならなかったように、経済学も「地球の有限」という制限を考慮することで、その枠組みを変更するパラダイム・シフトをしなければならなくなったのです。

Fukurou Shiroi
千田 芳嗣 さん、メッセージありがとうございます。よくわかりました。人が自然界のごく一部であるという事実。地球という一定の地域が養える命には限りがあることを、人類は情緒的にではなく、事実として理解しなければいけませんね。

少し前から経済は現実ではなく心理学、と言われています。政治・経済主義、人種主義、司法、立法ですら作り物。その価値観は事実を歪曲し、簡単に物語を作れるものです。贈賄や汚職、環境破壊などがはびこるのはそういうこと。
人は自然科学的に世界をとらえる必要がある。

事実は議論によって育ちますが、嘘はかならず破綻します。
いわゆる形而上と形而下に多くの人が気づく方法は、というと難しい。辺縁系は、大昔は「自分をまもる」ことに大いに役立っていたからです。今これだけ人の社会が大きくなってきては、辺縁系(文化、法律、主義)だけで自分を守ることはできず、自分が生きる世界、「事実」を考えることが必要になっています。

人は他人に進められると嫌がる。逆に自分で見つけたような気になると、進んでどんどん吸収します。そういう機会をどう作るか大きな課題と思います。

私の乏しい理解力では上記のようになりました。

ちなみに、医療界では、ここ三十年間で「専門用語」を使わず平易な言葉で患者さんに事実を説明することが常識化しました。千田さんの貴重な言葉、誰にもわかりやすいと、広がりやすいと思いました。メッセージありがとうございました。

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