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「誰のために」生きるのか。

「そんな服着るなら、連れて行かんよ。」

お出かけの度、自分が好きだと思った服を着ていたら母に言われた。

母が好きな服を着なければ、外出させてくれなかった。

「誰のために」服を選ばなくてはいけないのだろう。

「誰のために・・・?」


「誰のために」生きているのだろう、と考えるようになった。


母なりのファッション哲学を教えてくれていたけど、それは母の生き方。

私は「自分の好き」で、自分の表現したい自分で居たい。

自分の生き方で生きたい…。


学生時代、アメリカの企業でインターンをしていた時に、ふと気がついた。

みんな「自分の好き」を着て、輝いてる。

彼等は「自分の好き」をまとい、「自分のために」生きているんだ。

そして彼等と過ごす中で、私は彼等に包まれていく感覚があった。
彼等が受け入れくれたのは、私の「好き」であり、最も、裸の自身だったから。

何を着ていても、何が好きであろうと、何を考えていても、
それが「私」であること、私の存在そのものに感謝していると、何度も何度も伝えてくれた。

彼等が、私を他者のコルセットから解放してくれた。


日本に帰国してから、「私の好き」な身体のラインが出る服を着ていたら、
「太ってるんだから隠しなさい」とか「アメリカンだね」と言われた。

「私の好き」であり、「私」を表現することはここでは認められないような…。息苦しさを感じた。
日本という冷酷な環境をサバイブするのだと、毎日自分に言い聞かせた。

すらっとした身体、筋の通った鼻、長いまつげ、くっきりとした二重…。

インスタのインフルエンサーを見ては、「こうなりたい…」と言い続けて、


いつ、その「完璧」になれるの?


ふと、交差点を見る。

同じような服を着た人々。
大量生産・消費のファストファッションの台頭により、
みんな同じような、トレンドの服とメイクをまとう。

自分なりの「好き」は何だった?

「誰のために」好きを表現したいんだった?


私が、アメリカのダイバーシティな社会で得たのは、
私が私を解放したのは、
「完璧ではない美しさ」を感じれる自分。

一生たどり着けない理想の姿。
不完全な自分の姿。

どちらも、それぞれの生き方であり、それぞれの美しさを見出せるようになった。

どちらの存在も肯定してみる。

完璧じゃないからこその美しさを見ようとしてみる。

そんなところから、
「好きな自分」だったり、「自分」のために生きる豊かさは実現すると信じている。


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