深読(12) - 「レンガ積み職人の話」を深読みしてみる

深読みしたがりによる脳内言語化エッセイです。

決して単純な寓話ではない

ある老人が散歩をしていると、レンガ積みをしている職人が3人いました。
彼が職人一人ひとりに「あなたは何をしているのですか?」と尋ねると、
それぞれ次のように答えました。
職人A:「見ての通り、レンガを積んでいるんだ」
職人B:「レンガを積んで塀を作っているんです」
職人C:「人の心を癒す教会を作っているんですよ」

「レンガ積み職人の話」はよく意識高い系の人たちが「作業をするな、仕事をしろ」のような文脈で引き合いに出すのだが、記事中ではこのように書かれている。

(略)
職人Cは、単純なレンガ積みも、やがて塀になり、さらには立派な教会になり、多くの参拝者が訪れるという社会的な意義を考えて作業しています。
一見すると、職人Cが一番イキイキとしているようで、良い仕事をしているように思いますが、この話はどれが正解というものではありません。「物事を見る、取り組む際の視点の高さ」には、それぞれ違いがあるということを伝えています。

「私はただレンガを積んでいるのではない、人の心を癒すためという高尚な目的を持って仕事をしているのだ!」ということであり、現代社会において、このようなマクロな目的意識は「社会的にただしいもの」として浸透しており、「ただレンガを積んでいる」「塀を作っている」というミクロな認識は「ただしくないもの」というバイアスをかけられることがある。

しかし、記事中で指摘されている通り、ただ単に視点が違うだけであって、作業と仕事の優劣を裏付けるためのものではないのである。

「第二の男」は一番危ないのか

別の記事を見てみよう。

三人の石切り工の話がある。
何をしているかを聞かれて、
第一の男は「これで暮らしを立てている」と答えた。
第二の男は手を休めず、「国中で一番上手な石切りの仕事をしているのさ」と答えた。
第三の男は目を輝かせ、夢見心地で空を見上げながら「大聖堂を作っているのさ」と答えた。

冒頭のレンガ積み職人の話とほぼ同義である。

かのドラッカーの指摘によれば、「第一の男は経営者たり得ない。第三の男こそが経営者だ」とのことであるが、問題は第二の男だという。
ドラッカーは第二の男を「スペシャリスト」と表現した上で、次のように述べている。

スペシャリストは、たんに石を磨き、脚柱を集めているにすぎなくとも、重大なことをしていると錯覚しがちである。

つまり、経営者としてみれば視野が狭すぎで、作業者としてみれば己の作業を過大評価しがちという、中途半端な状態であると指摘しているのだろう。(もっとも、現場を回すためのロワーマネジメントにおいてはよくある話だと思うが)

300年の歴史よりずっと大事なこと

これは「ものづくり」という仕事が陥りがちな落とし穴とも言えるかもしれない。

一つ例え話をさせていただく。
伝統工芸の技術をいかんなく発揮して仕事をしている人が「300年の歴史を誇る伝統の品を作っています(ドヤァ)」とアピールするとき、この中途半端の落とし穴にはまっていると言える。

残念ながら、消費者は「300年の歴史そのもの」には価値を見出さない。「へー。」で終わるのだ。それより重大な関心事は「その工芸品が自分の生活の役に立つかどうか」である。

私が旅先の土産屋で商品を見ている時に考えることは、「誰が喜んでくれるか」「自分がどう使うか」である。「伝統」という言葉に弱い人が私の身近にいない限り、300年の歴史に価値はないのだ。

そんな消費者の購買意欲を少しでも上げ、クロージングに至るための一手法が、商品にまつわるストーリーを提供して自分ゴトとして身近に感じてもらう「ストーリーテリング」である。

上記記事ではまず、いみじくもドラッカーの「マネジメント」と「高校野球の女子マネージャー」という、いわば高尚な存在と卑近な存在を掛け合わせたことによって付加価値が生まれ、面白く読みやすいストーリーとして大ヒットしたという事例が紹介されている。

もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの『マネジメント』を読んだら(Amazon)

ちなみに筆者の場合、発売当初は表紙のあまりのライトさに逆に敬遠し、ブームが去った頃に読んでみたらやはり内容もライトすぎて頭に入っていかず、結局原典の方を頑張って読んだという、本の虫ならではのエピソードがあるのだが、おそらくこれは比較的レアなケースだろう。

と、「筆者」を主語にして一つ与太話をさせていただいたのだが、このような話もひとつのストーリーテリングである。筆者の自己開示によって、本好きの誰かから「信用や共感」を得られるかも、という狙いのもとにデザインしたストーリーであり、一種のコピーライティングとも言える。

先ほどの伝統工芸をPRするとしたら、「300年の歴史を誇る伝統の技」と謳うのも良いが、それをメインにするより、若い職人あるいは興味のある若者(客)をフィーチャーして、その若者がなぜこの世界に飛び込んだ / 興味を持ったのかを、エピソード仕立てで伝える方が「信用や共感」を得るには有効と言える。もちろん、これは「若い世代の顧客を新規に獲得する」のような目的がなければ成立せず、その内容で宣伝費を使って広告を打つかどうか、打つとしたらどのように、いくら使うか、まで決めるのが経営的判断である。

ストーリーテリングの指南は本題から外れるので、ここまでとさせていただく。

経営者の仕事とは何か

自分の仕事について、「第二の男」が言うように「レンガを積んで塀を作っているんです」「国中で一番上手な石切りの仕事をしているのさ」と語ることは、経営的判断という視点で見れば中途半端であり、相手によっては「そういうことが聞きたいんじゃない」と受け止められる可能性があるとは申し上げておきたい。

社会的ただしさの信奉者からは(そのつもりはなくても)「安易に見栄を張っていやがる」と思われるかもしれないし、神経をとがらせて正確に作業をこな壮とする職人気質の者からは「なんて雑な考え方だ」と辟易されるかもしれないし、食うためだけに仕方なく働いている者の心を動かせるほどのパワーワードにもならないだろう。

これは「ものづくり」のみならず、管理対象を「もの」とだけしか捉えていないあらゆる種類のマネジメントにとっても注意すべきこととして、自戒を込めて記させていただく。

「もの志向」が悪いのではない。「もの」は必要なのだ。
だが大切なことは「もの」をどう使い、世の中でどう機能させるかまで考えを巡らせることである。
そしてそれは「経営者の仕事」である。

「経営者視点」および組織に関する考察

「経営者視点」を組織末端まで要求するような風潮に対しては賛否がある。

0コンマ1ミリ単位でレンガを慎重に積んでいくような作業と、そのことがどんな人にどう役立つかを考えることは、全く性質が違うからだ。

ざっくり言えば、肉体・皮膚感覚を使うか、精神・社会的判断力を使うかということだ。また、中途半端な落とし穴とは言ったが、「レンガを積んで塀を作っている」という「もの志向」も立派な一つの視点として、組織内部の物品管理や品質管理などにおいて必要になる。

どれも重要なスキルであって、要求されるシーンが全く違うということだ。だが残念ながら、組織において経営・管理・現場の三者が自分たちの主張ばかりで歩み寄らない「三すくみ」状態に陥ることは往々にしてある。

「経営者視点」は、残念ながら全ての人が身につけられるものではない。

能力の問題というよりは、組織の構造上の問題である。

トップマネジメントに幹部が従い、幹部に一般社員が従うという会社組織の基本的な構造は、「経営者目線」を持たない(意図的に持たないようにしていたり、経験不足ゆえに考えが及ばないなど)大多数の一般社員によって維持されているのだ。

そんな一般社員に対してのマネジメントの不備、あるいは経営方針が不明瞭であるがゆえの「逃げ口上」として「経営者視点を持て」と言う行為は卑劣だといえる。

当の部下は「言われた通りにしろ」と「それくらい自分で考えろ」のダブルバインドに晒され、モチベーションがだだ下がりすることは必至である。

経営者へのフォロワーシップのかたちをざっくり分類するならば、だいたい以下の4パターンくらいではないだろうか。

1.「理解も共感もできない」
2.「理解はするが共感できない」
3.「理解できないがなんとなく共感できる」
4.「理解も共感もするが、立場上行動しにくい」

1.のように感じるなら、できるだけ早くその会社を辞めた方がいい。
2. 3. なら、まだその会社から得るものはあるかもしれない。
4.の状態を良しとするならばそのままでもいいが、良しとしないのであれば昇進を目指して邁進するか、辞めて新天地を探すかのどちらかしか道はないだろう。

みんな違う、という残酷な真実

レンガ積み職人が自らの仕事について何と言っていたかを振り返る。

職人A:「見ての通り、レンガを積んでいるんだ」
職人B:「レンガを積んで塀を作っているんです」
職人C:「人の心を癒す教会を作っているんですよ」

レンガを積むだけの単純作業にも、スピードや正確性を維持するための細かなコツがたくさんあり、それは尊重されていい。

レンガを積んで塀を作っているという答えは、たとえ人の心を動かせずとも、端的に事実をとらえた最も理性的なものである。

レンガが最終的に人の心を動かすはたらきをするという考え方は魅力的だ。だが、その考えに執着してばかりでは、理性はくもり、作業は大雑把なものになっていくかもしれない。

現場・管理者・経営者。「みんな違ってみんないい」とは言わない。ただただシンプルに「みんな違う」のだ。もっと言えば、組織を構成する一人一人の価値観も脳の構造も皆バラバラなのだ。

「組織一丸になって」と言えば聞こえはいいが、過酷な労務環境やパワハラなどの問題が可視化されやすい時代に、皆がどこで折り合いをつけて一丸となるのかなど、もはや慎重に手探りし続けなければ分かったものではない。

立派な経営理念や経営方針があるから安心だと思うかも知れないが、現場の視点からは必ずしもそうではない。現場にとって重要なのは、仕事を正確にこなすことだけでなく、そのためののコツや分かりやすいマニュアル、ストレスフリーな職場環境、同僚や上司との良好な人間関係など、もっとプリミティブなものだ。それを否定することは人道的にもおかしいし、パワハラだなんだとリスキーなご時世である。

たとえ体裁上だけでも「一丸となれる組織」など非常に稀なのかもしれない。あるいはそれ自体、幻想に過ぎないのかもしれない。

筆者は組織における我慢の限界を超えて会社組織をドロップアウトし、考える時間ができたことで、ようやくそのように客観視できるようになったと思う。

「みんな違う」だがしかし「それを拒めない」というのは、想像以上に強いストレスをもたらしていたようだ。

「切り捨てるのは残酷だ、多様性こそがただしい」とされる時代だが、多様性を「強要」するなら、それも同じくらい残酷である。

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