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現在の配偶者

実は、家内と出逢った頃のことはあまり思い出したくない。
マニラに居て、服も着た切りスズメ、お金がないどころか金融や解体業を占有しているシーク人からの借金まで重ねていた。ただフィリピン人というのは日本人以上に恩義を大事にする民族であり、それは心の底からというよりは世間の常識となっていて、恩を仇で返すことがもっとも軽蔑の対象となる行いとなるから見栄、といってもいいだろう。
自分は酒が呑めないという理由で信用されて、日本ではもともとフィリピンパブの運転手をしていた。待ち時間はまったく拍手の起こらない下品なオカマのダンスなどにも義理で拍手喝采をしていたためにそのオカマからたいそう気に入られて、誘いを断れずに比国へ渡ったのだった。そのオカマは二大ネットワークのテレビ局のお昼のバラエティショウに出演するほどの人物だったので、その人脈から寝食するお宅をたらい回しになるように暮らしていた。皆から怪訝な顔をされたが、おカネはなくとも困ることは無かった。
そして不法居住区にある長屋、洞窟のように天井の低い長屋に居を据えた。
それも現地人の施しからではあったが、大家さんの次男というのが道からいちばん奥まった部屋に愛人と暮らしていて、その男から仕事を与えられた。
彼とその愛人はシャブを常用していた。彼は長屋の細い通路に電化製品のガラクタを積み上げていて、表向きは家電修理の看板をだしていたが、本業は末端というか、二月に一度ビサヤ地方に出かけて卸から仕入れて来て、四種類ぐらいのそれぞれ色の異なるカフェインを混ぜて小売りしていた。水道事情の悪いためか、当時から比国ではシャブを炙りで使うのが一般的で、不思議なことにそのカフェインの種類によって炙ったときの味が変わるのだった。グレープ味、マンゴー味、バナナ味、パイナップル味と記憶がある。
私は彼の顧客にそれを配達したり、家電品を修理することで住まいと食を得たのだが、シーク人からの追及から逃れられる金銭的余裕は生じなかったから、実は逃げ出したくて仕方が無かった。ケソンシティにある金持ちのヴィレッジに配達に行くことが多かったから、ヴィレッジの門番も次第に懇意にしてくれるようになった。そこで華僑の投資家に仕事の相談するように掛け合ってもらった。そこは大邸宅で天井に届く高さのパッケージ型エアコンもあった。その邸宅で住み込みの家政婦というかベビーシッターをしていたのがのちに現在の家内となる。そこからはまた思い出したくない状況があるので、気が向いたらまたここに綴ろうかと思う。

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