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#7 樽見鉄道

鉄道敷設法上の位置づけ

「鉄道敷設法を定む」―大正11年3月
別表七十四 岐阜県大垣より福井県大野を経て石川県金沢に至る鉄道

本線路ハ北陸線金沢地方と東海道線大垣、岐阜、名古屋方面との捷径を構成する延長百三哩の横断線にして、延びては伏木、七尾両港と私設養老鉄道を介して四日市港との連絡を図るのみならず、沿線は木材、薪炭、陶器、鉱石、瓦、石材、石灰及び羽二重、生糸等の産出夥しく、又金沢福井等より産する羽二重、奉書紙、生糸の原料を美濃、尾張地方に仰ぎ、米、麦、その他雑穀を美濃方面に供給しその他需要の便を啓き、産業発展に資すること甚大なるのみならず、尚夏期白山登山者白山温泉の浴客を招致すべし
(鉄道省:鉄道敷設法予定線路説明)

いつ樽見までになったのか

第56回帝国議会(1929年・昭和4年)衆議院鉄道敷設法中改正法律案委員会において建設予算承認時。理由は不明だがおそらく予算上の都合であろう。
以降は「大垣樽見間鉄道」等と呼ばれている。
着工は1935年度(昭和10)。第一工区は大垣~横屋間、第ニ工区は横屋~山添*間。
*本巣駅~織部駅付近

此の請願は東海道本線の大垣から岐阜縣の本巣郡根尾村字樽見に至る樽見線の工事を促進し、豐富なる資源の開發に資せられたいと云ふ御趣旨でございます、此の鐵道は林産、鑛産、農産等の資源を開發する目的を以て五十六議會、昭和四年の三月、建設豫算に計上された線路でありまするが、延長は約三十五「キロ」であるかと考へます、爾來資金、資材、勞務等の面から計畫通りの工事が出來なかつた、其の上に戰爭に遭遇した、それが爲に全面的に工事を中止するの已むなきに至つたのであります

第90回帝国議会衆議院請願委員会 松田正一発言 昭和21年9月12日 

例えば大垣樽見線の如き昭和七年八年度とも三万円ずつ予算が計上されて測量は終わって居るのでありまするが、実際の工事に着手されて居らぬのであります。

第65回帝国議会衆議院委員会 大本貞太郎発言 昭和9年2月12日

▽樽見-金沢線
これも中部地方の長距離線で、大垣から樽見に向って、昨十年度から着工した樽見線の延長線となり(…)

事業興信社「今後の鉄道建設工事概況 : これだけは誰れでも知てをきたい」昭和11年

なぜ”樽見”?根尾村の一字にすぎない小地名の理由

樽見線の誘致に尽力した本巣郡会議員・宮脇留之助翁が根尾村樽見出身のため?樽見駅前に銅像と記念碑がある。

根尾川舟運と樽見線

樽見線は木曽川水系根尾川に沿っている。濃越国境能郷白山を水源とする根尾川は屈曲も多く水量も豊富で、木材薪炭材を河川舟運で運搬していた。
樽見線の敷設目的に「木材、薪炭」があり、同線はこの河川舟運を置き換えたともいえる。
なお根尾川舟運は、16世紀まで旧根尾川(糸貫川)を通っていた。
もしくは、この舟運の終点(最奥)が樽見だったのではないだろうか。

鉄道は北陸をめざす

美濃国と越前国を結ぼうとした鉄道で一番著名なものは「越美南北線(現:JR西日本九頭竜湖線・長良川鉄道)」である。しかし、鉄道敷設法に規定された路線は当「樽見線」のみであった。
古くは明治20年代、「濃越鉄道」構想があったが、1916年(大正5)鉄道敷設法が改正され、太田~高山~富山(飛越線→高山本線)が追加となったことで、金沢~福井~岐阜を結ぶ鉄道構想が具現化。
1919年(大正8)「大垣大野金沢間鉄道敷設建議書(これが樽見線)」1921年(大正10)には「濃越鉄道速成に関する建議書」が衆議院採択。
後者「濃越鉄道」は1920年(大正9)に予算化。これが越美線の淵源である。

また、北陸側からいえば、現在の北陸鉄道石川線の先、白山下まで通っていた金名鉄道も金沢~名古屋間(実際は美濃白鳥で越美線に乗入れ)を横断しようとしたとして有名である。

備忘録:関連するキャラクターたち

・恋浜みろく 第三セクターの先輩。三陸鉄道の成功を見て樽見線は再出発を決めた。
・越美きらら 本来であれば越前大野で繋がり、その効用を全うするはずだった。
・勝田ミキ 同僚に同じ三木鉄道出身の同型機がいる。また、淡墨桜は三木市にゆかりのある継体天皇が本巣の地で植樹したと伝わり、この縁で三木市志染町へ根尾谷淡墨ザクラが植えられた。


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