実況パワフル俺 〜TOKYO METS編〜
さあ、トライアウトを受けてみよう。
かわむらは METS の とらいあうとに さんかした!
初の練習参加。
場所は千葉のボロいグラウンド。
感想はというと
とにかく楽しかったの一言に尽きた。
もちろん次回も参加したいとの旨を伝え、次の参加予定は練習試合。
まだ入団は決まってないが、テストも兼ねてスタメンで試合に出ることになる。
相手はサウザンリーフ市原というクラブチーム。
8番ライトで先発だった。
久しぶりの実戦だったが、空から急に降ってきたアイディアを実践したところ、スリーベース含める3安打猛打賞。
この試合を機に入団が決まった。
加入してすぐ、未だに忘れられない試合がある。
TOKYO METS vs オールネイションズ
チャリティマッチとして開催された試合。
相手は海外野球経験者(米独立やヨーロッパ等)を中心に組まれたチームで定期的に活動してるチームだ。
この日はベンチスタートだった。
試合はビハインドで進み3-6
試合は8回表2死ランナー無し
8番代打 フィリピンハーフで通称マーティンとして有名な実家が肉屋の高橋
執念の内野安打で出塁すると
9番 鈍足のアルカイダこと興南高校出身 新垣のセンター前ヒット
1番 甲子園でホームランを打った沖縄尚学 平良のセンター前
ツーアウトからの怒濤の三連打
そして2死満塁の大チャンスで代打で現れたのは
2番 代打 高校時代1桁を1回もつけたことがない四番バッター 兼 元ニートの川村
とにかく無心で打席に入った。
そして甘く入ってきたスライダーを捉えた。
打球は高々と上がり、
レフトの頭を越す走者一掃のタイムリースリーベース
後に「南国四連打」と呼ばれる。
6-6の同点に追いつく。鮮烈なデビューであった。
結局試合は6-6の引き分けで終わった。
そして、ここから野球人生がガラリと変わった。
紹介が送れたが当時のTOKYO METSというチーム。
監督が福岡ダイエーホークスと千葉ロッテマリーンズでヘッドコーチや二軍監督をしていた「ハイディ古賀」こと古賀英彦さんだった。
当時、全然知らなかったが調べたらわかる。
めちゃくちゃすごい人である。
この人との出会いがなければ今の自分はいなかったと言い切れる。
他にも元駒沢大学の4番でブランク10年くらいあったのに普通にHR打っちゃう現在の監督の児玉さんを始め、
東京大学、立教大、沖縄尚学、興南、横浜、成田、拓大紅陵、智弁和歌山、修徳、日本航空石川、8時半の男の孫、元U-18フィリピン代表監督、30代中盤なのに俊足強肩強打のめっちゃ元気なおっさん、清水のラッパーなどなど。。。
(ちなみに横浜高校は元信濃の叶さん、拓大紅陵は元群馬の南、立教大と日本航空石川は元栃木の江畑さんと山崎
、8時半の男の孫は元高知の宮田)
と、なんともクセだらけ集団だった。
そして応援がすごい。
元ロッテの応援団が作ったチームだ。
自分たちが作った応援歌で時には練習試合ですら応援する。そしてセンスが良くてカッコイイ。
応援厨の俺からしたらたまらない。
にしても基本的にみんなレベルが高かった。
自分的にも外野で4番目か5番目くらいだなぁと思ってたのでレギュラーとして出れる気がしなかった。
とりあえず1年で慣れて2年目までにレギュラーを取ろう。なんて悠長に考えてた。
が、なぜかずっと出され続けた。
しかし打てない、盗塁は失敗ばかり
もしかしたら周りから不満もあったかもしれないがとりあえず出され続けてた。
特に技術的には何も言われない。
ひたすら練習と実戦を繰り返す日々。
自分の中で思ってる実力と試合に出れてる現実に違和感があり疑問に思いながらも何故かとある時から結果が出始める。
気付けば1番バッターを任され、守備もどんどん良い時の感覚に戻り、自分で言うのもなんだが走攻守揃った不動のセンターとなる。
特別何かの技術をひたすら練習したと言うよりはひたすら試合に出され続けたことによって実力がどんどん伸びていった。
何事も実戦が1番伸びる。これは間違いない。
クラブ選手権も都市対抗予選もそうそうに負けてしまったが夏にあった岩手県の一関の大会では決勝まで行き準優勝。
そしてなんと
個人的にも首位打者を獲得。
小学校の時から、なにか個人で賞を取ったのは初めてだった。
素直に嬉しかったのに加え、これを機に一気に自信へと変わった。
そしてこの後、、、、、、
〜次回、TOKYOMETS編 後編〜
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