見出し画像

実況パワフル俺 〜進路・大学編〜

「なんでお前練習してんの?」

A.大学でも野球するから

何故こんなこと聞かれるかって言うと、沖縄県立普天間高等学校は沖縄県の中では進学校の部類なのだ。

大人に

「あんた高校どこねー?」


って聞かれて

「普天間です」


って答えたら大体

「えー、頭いいね〜」


って言われるような位置付けではある。

なので高校を卒業してから本格的に競技を続ける人は一学年400人中2~3人いるかどうかなのだ。

だからこそ俺の行動は明らかに異端に見える。

ましてや負けた翌日だ。どう考えてもおかしい。


そしてその日、監督に呼ばれる。

「名桜大から是非来て欲しいと言う話がある」


人生初のスカウト。かなり嬉しかった。

が、

「公立だから特待生みたいな感じでは取れないから、AO入試でどうするかって感じになる」

との事だった。


名桜大とは沖縄県名護市にある公立大学で、2011年に神宮大会に出場経験もある県内では当時、1番強い大学であった。

特待生で免除とかあるなら、、と思ったが、一旦この話は置いておくことにした。

何故かと言うと、シンプルに沖縄は狭いからだ。

無名校の無名選手がこれからプロを目指す、と考えた時にまず必要なのが全国大会へ出場し、そこで名を挙げないとまず無理。


という考えがあった。


今考えるとそうでも無いけど。

そして沖縄だと全国出るまでの道のりが長く、基本県内から出ないのでどうしても注目されづらくなる。

その後、特待生とかでは無いが九州共立大、九州産業大、富士大、亜細亜大に推薦してもらえるという話もあった。

沖縄県出身者が多い大学だ。

ただ、どこも強い。

「多分出れない、しかも上下関係ヤバそう。」



という勝手なイメージがあった。

特に亜細亜大なんてめちゃくちゃ強いし、毎年何人もドラフト指名されている。


「そんなとこに行っても試合に出れるはずがない、潰れる。絶対無理。」

と思っていた為、光の速さで候補から外れた。



(光の速さで突っ走れ〜ドラマチックに〜)



まあ普通に考えてそういう所から抜きん出てくるくらいの気概と実力が無いとNPBになんて行けないんだけどな。


高校1年生の入学したての頃なんて、

「勉強頑張って慶應大に行く」

って目標で毎日勉強してたからその時に比べたら予想外の高校生活である。

ちなみに部活が始まった途端に勉強は諦めた。



そんな時、四国学院大学という香川県にある大学から話が来た。


香川県善通寺市にある私立大学である。


当時、戦力強化に向けて沖縄の高校野球のレベルの高さに目を付け、この年から沖縄県出身選手を取るという話であった。

プレーを見た訳ではないそうだが、話を聞き付け部長がわざわざ来沖してまで話をしに来ていただいた。

下調べや比較もせず、何となくで決めた。

ここにしようと。

実際、四国の大学リーグでは1番強く、全国大会も何回か出場している。

そして四国のリーグで優勝すればそのまま春の全国に出れるし、ここなら俺でも試合に出れそう。

直接話しをしていただいたのもあり、決断する。

一応、特待とかでは無いので免除も特に無く受験も受けなければいけなかったが普通に合格。

下調べ、比較を怠る事の重要さ。


齢17。そんなこと知る由もなかったのだ。


春を迎え、卒業。


とても濃い3年間だった。


この高校を選んで心底良かったと思う。

ここでの経験は今後の人生でも必ず生きる。

しかし、その成功体験が今後の野球人生を苦しめる事になるとは思いもしなかったであろう。

3月下旬。仲間に見送られ、香川県へと旅立つ。

初の四国上陸だ。

香川といえば、、、、、、うどん。


ほんとにそのイメージしか無かった。

学校のパンフレットに書いてあった

「香川県はコンビニよりうどん屋の店舗数の方が多い」

という一文だけが永遠に忘れられない。

香川県三豊市。


寮はそこにある。

俳優の要潤さんや、バドミントン世界ランク1位の桃田賢斗選手の出身地である。

ちなみに今までで住んだ中で1番田舎だった。


駅は無人駅。周りを見渡せば畑。


街灯もほとんどない。


最寄りのコンビニなんて2〜3km先にしか無い。


その日、寮長でもあるヘッドコーチが最寄り駅まで迎えに来てくれた。



「はじめまして川村です。よろしくお願いします。」

「おぉ、お前男前やなぁ」

一言目それかよ。

嬉しいけど。

そんな感じで軽く話をしてるうちにすぐ寮へ着いた。

何だこの不気味な寮は。


入ってみるともう既に入寮してる同級生がたくさんいる。


実は時期的にもかなり遅く最終入寮だった。


皆は一ヶ月前から入寮して練習にも参加してたらしい。

1番気まずいやつ。


そこから大学野球生活が始まる。


最初は基本練習の補助。

Aが遠征でいない時だけBが専用のグラウンドで練習する。

指導者も学生コーチしかいない。

するとどうなるか。

キックオフ

そう。サッカーが始まるのである。

入ったばっかだし、正直まだ1年生というのもあったのか負の感情は一切なく普通に楽しんだ。

そんなこんなで時は進み、昼飯は毎日うどん(ガチで)

春のリーグ戦は首位決定戦で負け2位。


秋まで残る4年生もいなかった為、すぐに新チームがスタートすると同時にヘッドコーチが監督になった。


するとどうなったか。

練習が地獄。

走り込みのオンパレード。

ほとんど技術練習をした記憶が無い。

アップで20m×135本(ノンストップのインターバル走)の日や50m×90本(同様)から練習が始まるなど本当に走り込みが多かった。


しんどかったが、耐えた。
これを耐えれば成長できるはず。

そう信じ込んで。


そういった姿勢や、身体能力の高さ等を評価していただいたのか自分で言うのもなんだが監督に気に入られていた。


時には練習後にマンツーマンで特打をさせられたりもした。

これは余談だが、その時に元香川オリーブガイナーズの練習生だった人が特別コーチとして来ていた。

そこで独立リーグというカテゴリーを知った。

その時は

「独立リーグかぁ、練習生とかよくわからんけどすげえなぁ。。。」


と多少、感心してた気がする。


そんなこともあり、1年秋のオープン戦から試合に出始める。1番DHや1番ライトを打たせてもらってた。

しかし結果が出なかった。

高校の時とは違い、指導を完全に受け入れていたが、自分の中で違和感があればなかなか結果には繋がらない。

リーグ戦当日。スタメンから外れる。

しかし毎試合ベンチ入りはしていたのでたまに代打や守備固めで出してもらっていた。

この頃には同級生や先輩に教えてもらい肘を故障する前の8割くらいは投げれるようになっていた。

実際リーグ戦でも補殺を記録している。

しかしバッティングはもう面影が無い。

完全に崩れてしまったのだ。

結局リーグ戦は優勝できず、ここから低迷していくのであった。

そこからは地獄の冬トレが始まる。

毎日、走る、走る、走る。

※これはとある平日の学校のある日の練習。



そして極寒の中素手で連ティー30球×15セット。


終わったら全力で素振り100本。

これは毎日あった


※グロ注意



その後に懸垂と腕立ての回数を測定。


MAXを更新しなければいけないので地獄of地獄。

寮に帰れば何も無い。

ひたすら遊戯王。

そんな毎日を過ごしていた。

それでもまず、1年間耐えれば何か身になってるはずだ、と自分に言い聞かせる。

時は12月末。

地獄の練習に耐え抜き、ついに冬休みが与えられる。

やっと沖縄に帰れる。。。。


この冬休みの帰省が人生の転機になるとは思いもしなかったであろう。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?