2019年9月13日の日記
・ツイッターで出会った人が、わざわざ鹿児島から東京へ来てくれた。同じ大学四年生の女の子でとても可愛らしい子だった。聞くところによると2、3年前から私のことをツイッターで知っており、アカウントを監視していたらしい。映画の感想や呟きを面白がって読んでくれていたらしい。さらに当時好きだった人に「この映画の感想おもしろくありません!?」って紹介してくれたりもしたらしい。こんな光栄なことってある!?嬉しすぎて照れちゃった。私がフィルマークスで「なりきりまきせさん」にしてることと同じじゃん…。なりきりまきせさん、会いたいな〜多分東京の人なんだよね。
・その子とすごく仲良くなった。今日は本当に楽しくて良い1日だったな。ホットサマーナイツとアスを一緒に観たんだけど、二つとも同じベクトルの感想を抱いており良かった。映画の話が盛り上がったし初めて会った感じじゃないのがこそばゆい嬉しさだった。情報化社会も捨てたもんじゃないな。
・今日もまた『君の名前で僕を呼んで』に付随する私の思い出について話してしまった。その子は話を聞いてくれながら泣いていたので、なんだか一年前のことを少し思い出して胸が熱くなった。このことはいつかちゃんと文章にしないとな。私の人生であんなに美しい思い出は今後ないかもしれないから。一年前にお別れした大好きだった恋人、本当にありがとうという気持ちになるね。
・恋に溺れるのも、恋を蔑ろにするのも、浮気をするのも、恋を忘れるのも全て人がやってることなんだなって改めて思った。浮気とか不倫とか、言葉だけだと倫理観に反する不快な行為として見られてしまうと思うけど、それをやってるのも人だから全てを否定・肯定と白黒つけるのって難しいなって思った。むしろすべての人を愛おしく思うよ。私に軽率に寄ってくる男の人だってやっぱり人なんだよね。蔑ろにする私こそ失礼な人だよね。すべての人に真摯でありたい。
・友達(バイト先)の彼女についての話を聞いて、「愛の信仰」じゃん…ってなって死にたくなった。絶対死にたくないしめちゃくちゃ生きたいけど。自分の好きな人、あるいは恋人に「自分と繋がる部分」や「自分と同じ部分」を見出す行為そのものが「愛の信仰」であると、信仰者は気づかない。信仰する者は信仰を始める以前のことを思い出せない。なぜなら自身の認知がすべて信仰によって(ある種)歪められてしまい、過去を過去のまま見つめられないから。信仰が信仰だったことは、信仰が崩壊した瞬間にしかわからない。だから私はずっと信仰が信仰であると気づかないまま誰かを愛していたいってわけよ。cmbynをもうやりたくないの。ずっとあなたの名前で私を呼んでもらいながら死にたい。この愚かな行為が一生できるなら、私は現在の自分が愛しているすべての興味を放棄してしまうだろう。他人を愛することはそれらすべてを放棄してでも価値があることだと思っているから。ヤンキーマインド私に宿りやがれ
恋愛哲学回か?毎日こんなこと書いてるな