男性中心社会だと思ってしまうことは思い込みなのか 2020年9月24日の日記
・会社の社長、部長、同期一人と会食した。会社でのし上がりたい、希望の部署に行きたいなら麻雀とゴルフができるといいね、と言われた。
・同期(男性)は両方とも心得ているらしい。上司に対して十分なアピールになっていた。私はこの会話が出た時、声を出せなかった。へへと顔を歪ませて笑うポーズしかできなかった。コミュニケーションに参加できなかった。
・私のフェミニズム的志向はこんな情けない姿だったのかと、今、帰路のバスに乗りながら涙を流してこの文章を書いている。こんな「楽しそうな現場」で声を上げられないほど情けない人だったのかと、自分に絶望している。
・大きな組織でのし上がるために、私は男性にならなければいけないのか。過酷な営業で成績を収め、飲み会で酒を煽り、麻雀とゴルフを身につけて、毎日快活な挨拶をして、悩みなど何もない元気な男でいなければいけないのか。恋人を蔑ろにする、あるいは蔑ろにした過去があることを武勇伝のように語ることに誉れがあるのか。
・全部気持ち悪い。気持ち悪い。今吐きそうになってるのはものを食べすぎたからじゃない。お酒を飲みすぎたからじゃない。私が男性になりたがってるのが何よりも気持ち悪い。会社の男性になることが社会で成功することなのかもしれないけど、気持ち悪すぎて泣いてる。バスの中で、降りて歩きながらも、家に帰っても、私の部屋のベッドの隅でも、トイレに入っても、男になって成功を収めようと目論む自分が気持ち悪い。
・それらをしなければ私に未来確約の特急乗車券はないのか。そんな訳ないはずなのに、怖くて、不安で、涙が出る。何もできないまま、血縁家族の希望も相まって、相応の年齢になったら結婚相手を見出して、子供を作って、産休に入って、キャリアなんて何のその、ほとんどパートみたいなお金の稼ぎ方をして、総合職正社員なのに地方の支社で営業の仕事とかしてる未来に進む各駅停車の定期券を6ヶ月単位で買ってんのか、今。
・吉野源太郎の『君たちはどう生きるか』は男の物語なのか。男の道徳なのか。私は男にならなければいけないのか。男のように振る舞って、グロテスクな道徳を身につけて、身につけたことも忘れて、これから若い女の子たちに希望の話をしなければいけないのか。
・私は何もできない。何も持ってないし、何もしたくない。ただ健やかに生きたいだけなのに、なぜ今泣き喚いているのだろう。世界中の敵に降参さ。戦う意思はない。世界中の人の幸せを祈ります。だからお願い、関わらないで。私のことはほっといて。
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