熱源と帰属意識

『熱源』(著:川越宗一)をオーディブル版にて聴了。
19世紀末期〜20世紀中期くらいまでの樺太が舞台。活き活きとした登場人物たちが胸に残る。物語としては良い意味で淡々と進んでいくところが歴史の取り戻しようのなさを表すようで切ない。
そして、“帰属意識”というものについて考えさせられた。アイヌ、日本人、ロシア人、ポーランド人。世界が急速に広がっていくなかで、アイデンティティが揺れに揺れた時代だったのだなあと。アイデンティティであり、帰る場所。慰めや安心をくれるものでもあるけれど、差別心の温床になったりもする。戦争って、権力者たちの本当の思惑とは別に、兵士や民衆はこの帰属意識ってやつを操られ、掻き立てられて戦うんじゃなかろうか。

で、思う。自分にとって、この帰属意識というものは、一体どのへんにあるのだろう。
まず、「日本人」であることは、命を賭してまでこだわりたいことだろうか、と考えてみる。正直そこまでじゃない気がする。これは素直に想像しただけのことであって、当時の人々を馬鹿にしたいとか、日本を嫌っているわけじゃなく。もちろん乱暴な方法で奪われるようなことなら抵抗をするかもしれない。でもそれは「日本人であるために!日本を守るために!」とかじゃない。素朴に例えるならば、「もし明日から自分の選んだ〇〇人になれるよ。ただし日本以外ね。」って言われたら、どうするだろう…というような、他愛のない話、他意のない話がしたいのだ。

一緒に考えてみていただきたい。みなさんはどこに“帰属”の感覚を覚えるのだろう。次は少し大きく、「アジア人」という括りはいかがだろうか。僕としては、これも日本の場合とあんまり変わらない。

さらに話をデカくしてみる。「地球人」であるかどうか。これは『三体』にも登場するテーマ。これは…わかんない。スケールがデカすぎてわかんない。でもそこがSFの面白いところ。もっとデカくすれば、太陽系人とか、局部超銀河団人とか。(宇宙での地球の住所は「局部超銀河団 おとめ座銀河団 局部銀河群 銀河系(天の川銀河) オリオン腕 太陽系 第3惑星 地球」になるそうだ)帰属意識というのは、今いる場所の“外側”を意識してみて初めて発生するものなのかもしれない。

じゃ、今度は小さく、身近なもので。
都道府県、市町村、地区、出身校、性別、生まれた年代 …などなど。
どれも自分を自分たらしめているものではあるのだろう。だけど、そこに常に回帰したいとか、絶対的な拠り所のようには思わないんだよなぁ、という感じ。あと、血液型とかにやたらこだわる人がいるけれど、僕はあんまり信じていない。(ライムスターの「AB・A・O・B」は名曲だと思う)あれで人格を見切ったつもりになられるのは腑に落ちない。

家族や家系はどうだろう。小田家か。しかし僕は家業の寺を継がず、ドロップアウトした身。むしろ家系や血筋をぶちこわした張本人なのだ。それで育った町を飛び出したわけで…と、ここまで書いて「あ、だからか」って感じもしてくる。つまりは、属したくない。何にも属せずに生きる道を探り続けているのである。

思えば、子どもの頃のほうが、帰属意識的なるものをはっきりと持っていた。部落ごとにチームになってやる市民運動会とか、学校対抗の部活の試合や陸上記録会とか、なんか燃えた。そんなあれこれを思い返すと、ちょっと恥ずかしいくらいにしっかり帰属意識に支配されていた。町内で別の小学校がある地区に遊びにいくと、敵陣に踏み込んだようなドキドキがあった。
あと20代の頃までは、自分があまり知らない音楽のジャンルを小馬鹿にしたりするようなフシも、ちゃんと在った。それもひとつの帰属意識みたいなものだったかもしれない。無知と自信の無さからくるものでもあったのだと思う。今も常に自信あるわけじゃないけど、己の無知からくる愚かさは果てしないなと痛感する。僕の中にもちゃんと在る気持ちなのだ。

だけど、ずいぶん薄れてしまった。そう気が付くと、なんだか寂しい気もする。羨ましくもある。そうか、僕の心はまるきり寄る辺ないのではないか。自由にどこへだって行けるけれど、「熱源」を持たない。いつか見つかるのかもしれないけれど、こだわりを持ち、囚われることもそれはそれで怖いとも思う。
同じことで笑って肩を組める仲間や、競う相手がいるというのは楽しいし豊かなことだ。でも、ひとつ間違えば、それが蔑みや争い事になる。それは嫌だ。人類はいつか、僕はいつか、この帰属意識と上手に遊べるようになるだろうか。

難しいこと考えるのはいいけど、書くのはめちゃくちゃ疲れる。
書く人たちはすげえな。

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