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三島由紀夫vs東大全共闘から学ぶ「思想」


1969年5月13日。東京大学 900番教室。

一人のゲストとの討論会が企画されたことで、この日の900番教室には約1000人の観客が詰めかけた。

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小説家の三島由紀夫


東大焚祭の一幕であった、この討論会。

主催は東大全学共闘会議駒場共闘焚祭委員会、東大全共闘と呼ばれる学生運動

日本有数の知能を有し過激な運動を続ける一部の東大生と、すでにベストセラー作家であった三島が交わしたのは、言葉だけで伝わるものではない「思想」だった。

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今日は、この900番教室で開催された東大全共闘と三島由紀夫の討論をもとに、思想について。


1967年 羽田闘争
1968年 成田デモ事件
    新宿騒乱
1969年 東大安田講堂事件
    10.21国際反戦デー闘争
    佐藤首相訪米阻止闘争

当時の学生運動と呼ばれる過激な活動の発端は、アメリカが行っていた「ベトナム戦争」への日本の加担に反対する、新左翼的なものだった。
アメリカの属国ではなく、独立した日本という国を求める、学生たちの運動。

学生運動自体は、学費の値上げ反対や、学校側の方針に反対する意味でのストライキや紛争によって、たびたび起こっていた。
だが、そこに政治的意見が加わること。
さらに様々な闘争が大きなものになるにつれて、その勢いは拡大していった。
そこに、隣国ソ連から流入していた共産主義思想も拡大していくことで、学生運動は内部的にも混沌としていく。


今回の討論の主催者である東大全共闘は、学校内での意見主張はもちろんだが、主にアメリカとの関係を適切なものにするという政治的思想、イデオロギーを持っていた。

対する三島は、天皇を中心とした国家の再興、そのための自衛隊の日本国軍化を望んでいた。

現在の日本に対して意見を持ち活動を続ける両者だが、見据えた日本の未来は全く違ったものである。
左翼活動家の本拠地ともいえる900番教室に、右翼活動家である三島が乗り込む。
紛争を厭わない東大全共闘の本拠地に、敵として単身三島は乗り込み弁を振るった。


討論会の冒頭で三島は、

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三島「私は、男子門を出れば7人の敵があるということで。
今日は7人では効かないようですので、大変気概を持って参りました。」

実際三島はこの日、腹巻に短刀と鉄扇を忍ばせており、全共闘側の「三島を論破して立往生させ、舞台の上で切腹させる」と発した言葉は、三島自身の耳にも届いていた。

断固として単身乗り込むと言い900番教室に向かった三島だが、三島が設立した民兵である盾の会メンバーや、私服警官が多数現場に潜入していた。


敵の本拠地に単身乗り込み、不利な状況の三島ではあるが、忘れてはならない。
三島は現在においても名の立つベストセラー小説家であり、討論という言葉を操る場において右に出るものはまずいない。
当年2月に先述の盾の会を全額三島持ちで設立しており、行動から見て取れるように、言葉の根源をなす思想の面でも全共闘は、三島の圧に耐えうるものではなかった。

結果として討論は、笑いや冗談も入り混じるものとなり、お互いがお互いを尊重するような良い形での幕引きとなった。
終始、集まった学生が三島に一目置く討論会で幕を閉じたわけだ。

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上の画像は、東大内部で掲示されていた、三島との討論会の宣伝チラシ。
「近代ゴリラ」と、文武両道を極めた三島に対しての皮肉が込められている。
下の画像は、三島との討論にて、敵対するはずの全共闘司会進行 木村修 が、三島に対して無意識に「先生」と敬称を付けた弁明。


全共闘にとってこの討論は、先の東大安田講堂事件の鎮圧によって下火になってしまった学生運動の再燃が目的である。
しかも「近代ゴリラの飼育料」と称して、一人100円以上のカンパを募っている。

対する三島にとってこの討論会は、命を落としかねない敵陣で討論する。というとてつもない重圧のもと行われた。
三島はこの討論会において、何を得たかったのか?

それは、思想に関わる二つの大きなものではないかと推測する。

一つ目は、自らの思想を体現する。ということ。
この年三島は、民間防衛組織として「盾の会」を設立している。
盾の会の目的は、左翼革命勢力から天皇とその制度を防衛し、天皇を中心とした国家の再興だ。

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当時の日本は、終戦から20年以上も経過しており、戦時中のような天皇万歳思想は、かなり薄かった。
だが、祖国を守る自衛隊や、三島のような戦争時に多感な時期を過ごした若者のなかには、思想としての大日本帝国の名残が残っている。

三島の思想と盾の会の目的に共感した、当時の自衛隊山本舜勝は、体験入隊として訓練する盾の会メンバーの指揮官を買って出ている。
自衛隊員のなかにも日本陸軍出身者は多く、彼らの中には少なからず、三島のように独立した強い日本の再来を望んでいたものがいた。
彼ら自衛隊員は、三島の活動を支持していたのだ。

三島にとって、自らを突き動かす思想。
それを体現するために、900番教室での討論会を避けて通ることはできなかったのだろう。

二つ目は、自らの思想についてくる学生を探していたこと。
1000人を超える左翼思想の聴衆を前にして三島は、自らの極右的な思想を熱弁し、説得できると信じていたと思う。

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実際三島は、この討論会において、新左翼思想の学生から一目置かれる存在となっている。
それも、大学進学率20%程度だった当時の東京大学の学生1000人を相手取ってだ。

すでに数多くのベストセラーを世に出していた三島にとって、自身の思想に基づいた行動は、決して金持ちの道楽などではなく、自らの命を使って体現した理想だったのだ。
「どう生きるか」と考え模索する東大学生に対して、三島は「どう死ぬか」と、自らの命をどのように思想の体現に役立てるかを考えていた。

腹巻に携えた短刀は、自らの身体を守る護身用として備えたのではなく、場合によってはその場で腹を切る覚悟で携えたものだった。
思想に突き動かされ自ら命を絶つ行為は、現在はもちろんのこと、当時の日本でも決して迎合される思想ではなかった。

形成された思想を体現するため、全共闘のメンバーは警察に立ち向かい意見を述べ、それを実行するために賢い頭を使っていた。
彼らなら、三島自身の考える思想に共感するかもしれない。
三島の思想が少しでも、彼ら未来を担う若者に届くかもしれない。

そのような思惑が、三島自身にもあったはずだ。
命を捨ててでも伝えたい思想というのが、三島を敵陣へと連れて行った。

この討論会の少しあと、三島は自らの思想を現実のものへとするため、自衛隊市ヶ谷駐屯地へと趣き、長官を監禁し、駐屯地の自衛隊員に「檄」を飛ばした後、自決している。

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当時の自衛隊員の大半は、戦争を実体験していない若年層だったこと。
ヤジが激しく、そもそも三島の伝えたいことを伝え始めることができないかったこと。
年長者でさえ、まさか自決を覚悟して檄を飛ばしているとは思いもしなかったこと。
様々な要素が重なり、三島の命を賭した檄は、その場にいた自衛隊員に届かなかった。


三島の自決からすでに50年が経つが、三島が残したのは美しい言葉で彩られた素晴らしい小説だけではない。

三島の残した思想。
それは、現在では通用しないかもしれない。
だが、思想を持ち自らを突き動かす、その三島の生き方から私たちは、何か学ぶことができるはずだ。

過激な学生運動が収束したのは、三島の死後2年ほど経過してから。
山岳ベース事件、あさま山荘事件に代表されるリンチ殺人が生じてから、学生運動に対する世論が変わり、学生の思想爆発はタブー視される。

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当時の学生運動末期の活動家たちは、自ら意見や思想を述べ、熱い思いをぶつけあうといった、私たちが考えうる学生運動とはかけ離れた活動を行っていた。

活発になった学生運動は次第に勢力を増し、活動を共にする人員が爆発的に増加し、規律や思想を守ることが重要視された。
いわゆる「軍隊式」である学生運動は、活発な当時に年少者であったものに強要される。

彼ら年少者ももちろん年長者へと変わっていくが、彼らは思想をぶつけあうのではなく、作られた思想を維持することを重要視した。
その結果、規律を守らないものへ罰を与え、それがリンチ殺人へとつながっていった。
一概に学生運動といっても、全共闘や連合赤軍など、思想や在籍校、活動年代によって、その思想は様々なものである。

一つ言えるのは、思想の親離れともいえる大学生という年代を当時迎えた学生は、意見を述べることが一つの善であると認識されていたことだ。

私自身も含めた「ゆとり」と呼ばれる世代は、正解はすでに転がっているのだから、主張するのではなく正解を探すために行動する。という思想を全体的に持っていると思う。
良いか悪いかは別にして、当時を生きた先輩とは、大きくかけ離れた思想だ。

ゆとりの後の世代。
スマホが一人一台の時代となり、情報を受け取るメディアとの付き合い方が変わった。
「家族で一台のテレビ」から「一人一台のスマホ」へと変化していった。
それを機に、のちの世代の思想は、集団的なものではなく個人的なものへと変化した。
席が隣の同級生と思想が違っても、スマホの向こうに同志がいる。
SNSの台頭によって、思春期のあとにやってくる「思想の親離れ」の形は変わった。

すこし前、坂本龍馬がもてはやされたのは、生き方にあこがれる人が多かったというよりは、思想に突き動かされる龍馬に魅了された人がおおかったのではないだろうか?

どうやら、思想と行動が一貫した人に対して、人は敬意を持ちあこがれるのではないかと思う。
三島由紀夫は、自らの死に方を模索し、思想を体現するために自らの命を使った。
私たち現代人も、自ら思想を持ち、突き動かされるように人生をすり減らす生き方を望んでいるのではないだろうか?

自由が拡大した時代を生きる私たちであれば、なにも人と思想をぶつけあい争う必要はなく、自らの思想を堂々とSNSで公表し、賛同する人たちとのコニュニティーを形成することが可能だ。
思想は自由でいい。他人の思想を侵害しない限り。

現代なら、それが出来る。

私たちは、長らくタブー視されてきた思想というものと、今一度向き合い、自らを突き動かされてみるべきではないだろうか?
それを望んでいるのではないだろうか?


どの形が、思想の形成にとって最適か、私にはわからない。
だが、思想の多様化、思想表現の多様化は、間違いなくのちの日本に何らかの影響を及ぼすはずだ。

どのような世代に生きた人間であっても、過去の思想による失敗を学び糧にし、死に方を考えたいものだ。