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まんじゅうおか

わたしの家の近くに、『万寿ヶ丘まんじゅがおか』と呼ばれる場所がある。
盆地の底にあたるこの辺りは、周囲を高い山々に囲まれているものの、街自体は平地だ。
その平地に、ぽつんと小高い丘がある。それが万寿ヶ丘まんじゅがおかだ。
丘と名はついているものの、実際は標高500mほどの山であり、乗用車がようやくすれ違える程度の県道がぐるりと山に沿って通っている。今はほとんど車が通ることはない。
周囲は約4km程度の小さな山で、昔は新興住宅地として売り出されていたらしい。しかし、年々住民が減り、わたしがこの辺りに住むようになった10年程前には、すっかり人がいなくなってしまった。

数年前、ある企業が山を丸ごと買い取り、その『万寿ヶ丘』という名にあやかって高齢者向けの大きな施設を建てた。
もともと住宅地だったこともあり不便はなく、山道をそのまま利用した爽やかな散歩コースや街の喧騒から少し離れた静かな環境が売りで、途端に人気の施設となった。この辺りでも「老後は万寿ヶ丘」などとよく耳にする。

わたしが気になっているのは、万寿ヶ丘のふもとにあるバス停の名である。
そのバス停は『饅頭丘入口まんじゅうおかいりぐち』という名前であり、バスを降りると万寿ヶ丘の山へと続く一本道がすっと通っている。
恐らくは住宅地があったころの名残であろう。昔は山道のほうへ入っていくバスルートもあったと聞く。
 
しかしながら、この山は『まんじゅがおか』である。『まんじゅうおか』は響きは似ているものの、漢字は違うし、恐らく、意味も違う。
ただ、バス停の名前から察するに、住宅地があったころに『饅頭丘まんじゅうおか』と呼ばれていたのは確かだろう。それがいつ、どうして『万寿ヶ丘まんじゅがおか』になったのか。
その名にあやかって高齢者向け施設が建てられたのであれば、住宅街が廃れてからその企業が買うまでの間に、何かしらの意図があって表記と呼称を変えたということだ。一体、なぜ。誰が、何のために。


万寿ヶ丘の地名の変遷

暇を持て余していたわたしは、地域の公民館を訪ねた。地名の由来や変遷を調べるためだ。
ここは万寿ヶ丘の麓にある公民館で、図書館が併設されている。郷土資料や地元紙など、中央図書館ほどではないが、ある程度調べることができる。寧ろ、この辺りの地域の歴史については、大きな図書館よりもここのほうが資料が豊富だった。

以降、丸五日を費やして、素人ながらに『万寿ヶ丘』について調べてみた結果である。
古い資料を読むというのは大変な作業だった。研究者や歴史学者というのはすごいと改めて思う。

かつて、この山はやはり『饅頭丘まんじゅうおか』と呼ばれていたらしい。その表記が見られるのは江戸時代ころからで、それ以前は『まんずおか』と書かれていた。
まんずおか』は漢字で『萬頭丘まんずおか』と表記するらしく、その名が出てくるのはもっと前、戦国時代からであった。
さらにさかのぼると『まんづか』という名も見つかった。『万塚まんづか』と漢字があてられている。

万塚(まんづか)

塚とは、古墳など、墓を表す意味もある。
資料によれば、ここは古くは古墳であったという。この辺りに住んで10年程経つが、わたしはその事実を初めて知った。恐らく、地元の者でもあまり知らないのではないだろうか。万塚古墳。ありそうな名前だ。恐らく、日本のどこかにこんな名前の古墳が他にもあるに違いない。
そのころの万塚はそれほど高さもなく、小規模な古墳だったとされている。

その古墳がなぜ現在に至るまで遺跡として残っておらず、発掘調査もなされていないのか。そのあたりははっきりとはわからなかったが、この土地の歴史をさらに調べることはできた。

萬頭丘(まんずおか)

戦国時代、この地を治めていた領主がいた。
盆地は、山に囲まれているためなかなか攻められにくい地形である。ただ、その地形ゆえ、水害は絶えなかったという。
そんな地において、盆地にぽつんとある小高い丘は貴重な場所だった。
無論、そこが塚であることは知りながらも、この地形を利用しない手はないと踏んだ領主は、その塚を中心にさらに土を盛り、小高い場所に小さな集落を作らせる。そして、城の備蓄のほかに、その集落にも備蓄庫を設け、水害時の備えとした。
果たしてその策は、功を奏したように見えた。ある年、川で大水が出た際に、周辺の者たちはこの小高い集落へ逃れ助かることができ、さらに備蓄で飢えを凌いだのである。
しかし、奇妙なことが起きた。その集落の者たちや、そこへ逃げてきた者たちが皆、変死を遂げたのだ。
彼らは皆、首から上がなかった。
ある日、領主の家臣が備蓄の確認のために集落を訪れると、頭のない死体がそこらじゅうに転がっていたのだ。
領主はこれを万塚の祟りと恐れ、集落を廃止し、代わりにそこを彼らの墓とした。亡くなった者たちをそこに埋め、弔ったのである。その数は、数百ともいわれている。
それだけの亡骸を葬った塚はさらに高くなり、小さな丘となった。そうして、ここは消えた萬の頭が眠る丘、『萬頭丘まんずおか』まんずおか、と呼ばれるようになったという。

萬頭丘には、草木一本生えなかった。禿山のような丘は、その後、祟りと騒がれることもなければ後世に弔いの儀が残ることもなく、ただの小高い丘として、周囲の風景に溶け込んでいった。

饅頭丘(まんじゅうおか)

時は進み、江戸時代。
寛永19年、全国的な飢饉が起こった。『寛永の大飢饉』である。
この辺りも例外なく、異常気象による農作物の不作や、それによる飢餓、病、暴動などで多くの者が亡くなった。
中でも特に多かった死因が奇病であった。
最初はひどい頭痛に始まり、その後、高熱にうなされ、何も食べられなくなって痩せ細っていく。そして息を引き取ると、頭部が腐ったようにどろりと溶けてしまうというのである。
医者にも原因はわからず、その病は萬頭丘の周辺で一気に流行し、そして突然ピタリと落ち着いた。
亡骸からまた感染が広まるかもしれない、と、彼らは全て焼かれ、そして人の住まない萬頭丘に埋められた。こうして丘はまた、大きくなった。
地元の者たちは飢饉が収まると、せめてあの世で腹いっぱい食べられるように、また、失った頭が見つかるようにと祈りを込めて饅頭を供えるようになった。饅頭は古来、中国で人の頭を模して作られたものだと言われている。

やがて丘には草が生え、木々が茂るようになった。人々はいつしか『饅頭丘まんじゅうおか』と呼ぶようになり、饅頭を供える習慣は明治時代まで続いた。
その後いくつかの戦争を経て近代化をたどるうちに、その習慣は時代の流れの中に消えていった。

饅頭丘団地

その後、さらに時代は流れ、平成の新興住宅地開拓ブームの中、饅頭丘に白羽の矢が立った。饅頭丘団地の開発である。
開拓時には地質調査などがおこなわれたというが、きちんとした調査だったのかは怪しい。当時の記事や記録を見るに、古墳のことも、埋められたはずの白骨のことも、当時の調査では全く触れられていなかったらしい。
それゆえか、住宅地では事故が多発した。県道での自動車事故はもちろん、自殺や不審死、心霊現象の証言などが相次いだ。
大々的に報じられることはなかったが、そのせいで年々人が減り、ついには住宅地には誰も住まなくなった。マスコミや周辺住民はずさんな調査と工事のせいだと住宅地の管理会社を非難した。
不思議なことに、このときには祟りだの呪いだのという話が出てきたというような内容は一切記録に残されていないのである。
わたしが少し調べただけでもこれだけいわくのある土地だとわかるというのに、誰ひとりとして古墳のことも、奇妙な集団死のことも、奇病のことも、触れていないのである。
もしくは、敢えて記録が消されているのだろうか。それはわからない。けれど、誰が何のためにそんなことをするのかもわからない。

なんにせよ、住宅地の一件についてはいちばん最近のことであるはずなのに、情報があまりにも少ない。地元新聞の批判記事程度しか見つからないのである。単に、逆に歴史が浅いからこそ、最近のことは調べにくいのかもしれない。
ただ、これはわたしの憶測でしかないが、住宅地で相次いだ事故や不審死も、頭のない死体がいくつもあったのではないだろうか、と思っている。
ここまでくれば、そう考えてしまうのも仕方のないことだと思う。

地名の由来は面白い

そんなこんなで、この『万寿ヶ丘まんじゅがおか』がかなりいわくつきの土地だということはわかった。正直、地元の小さな公民館にこれだけの資料が揃っているとは思わなかった。
まさかこんな由来があるとは思わなかったので、不謹慎かもしれないが、ちょっとわくわくしてしまったというのが正直なところである。
結局、だれが何のために『万寿ヶ丘まんじゅがおか』と名付けたのかはわからなかったが、良い暇つぶしにはなった。書かれていることが全て本当かどうかはわからないが、地名というのは調べてみると面白いものだ。
  
余談だが、わたしの住む地域は、久雛地町くびなじちょうという。くびなじちょう、と読む。
ついでに少しだけ資料を覗いてみたところ、古くは、クビナ氏という豪族が治めていた土地らしい。
恐らく、万塚の古墳に眠るのは、このクビナシの一族の誰かなのだろう。

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