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アスランという存在

出来るのは自分のことだけ

”アスラン”とは、ナルニア国物語に出てくるライオンの王の名前です。

アスランはどんなときにも、質問者自身のこと以外には答えてくれません。

”心配”を理由に他人について尋ねる事を、毎回必ず戒めます。

心配だから聞いているのに!少女は言うのですが、アスランは

『あなた自身のこと以外であなたができることはない』

と言うのです。

ちょっと気難しくも聞こえるこの言葉は、とても的を得ていると思っていて

例えば、自分の子供に対してですら

心配だからという理由でも

本当に助けてあげられることは、見守る以外にほぼないのです。

以前、息子の幼少期のいじめについて書きましたが

あのとき

私があのいじめっ子に対して何か説教や仕返しのようなことをしたりしても

きっと、息子の自信はつかなくて、場所を変えてもきっと何かしらのいじめと向き合い続けたことでしょう。

いま苦しんでいる誰かに手を差し伸べることはできても、

永遠に助け続けることもまた現実的ではないでしょう。

アスランの言葉はいつも

今の自分を確認するための指針となって、心に響きます。


世間で何か起こる度に思うこと

人のことを、あれこれ話しても仕方がない。

例え心配からだとしても。


誰か助けられなかったのか、とか

そんなこと承知でやってたんだから気持ちが弱すぎる、とか

まぁ人って、いざ自分以外(それも、特に直接知らない人)に対しては

それはそれは勝手なことを言うものです。

当人が亡くなった後ですら平気で。

もしそれが自分の大切な家族や友人だったら

それでも同じことを言うのかな?

ご遺族の前でも、同じセリフを平気で言えるのかな?

そういうことが、これまでも幾度もありました。

相手が有名無名かは関係ない。


写し鏡

親切とお節介 心配と優越感 やさしさと自己満足

それらはみんな表裏一体

だから、うっかりやり過ごすと負の感情へ持っていかれちゃう。

例えば

電車やバスの車内で、荷物を抱えて乗り込んできた人の荷物を棚に上げるのを手伝うのは親切。

受けた側も助けた側も気持ちよく、後々のお礼返しもいらない。

一方、友人の生活を心配して、あれこれ口を出す…これはもうお節介。

(最近私はうっかりやってしまった…汗)


人を心配する(助ける)ときに、何が働いているかと言うと

ほぼ必ず、裏の感情として『優越感』がくっついていると思うのです。

助けて”あげた”という満足。自分は大丈夫”だから”心配して”あげて”いる。

もしくは、私が心配して”あげて”いるこの人は、私より大変な状態である。

自分が上という想定でないと、なかなか心配とか助けるという発想にはいかないんですね。

だから、相手の反応が自分の想定外だったり、またぶら下がるようにずーーーっと助けを求め続けられると、それはそれでうんざりするはず。

親や兄弟や友人から、こんな言い回し聞いたことありませんか?

あなたに良かれと思ってやってあげたのに

とか

心配だから言ってるのに

とか。

だからアスラン!

アスランがいうところは、そんな裏の感情の自覚をしろということなのなかぁと思っています。

本当に面白いほど正確に、自分の感情と相手の反応は比例してくる。もっと言うと、相手の反応への自分の反応が、自分の感情と比例しているということ。

自分が少しでも不安があったり満たされていないときの人の反応は、とても気になります。

先日、これまで長年に渡り、私が手を貸してきた(つもりになっていた)友人から、ちょっと上から目線の話をされてイラッとして、私は気分を害してしばらく時間をおこうと思いました。(これが先ほど言ったやってしまったコト)

今まで助けてきたのは私だよね?しかも今回私助けてとか言ってるんじゃなくて、自分のできる事がないか考えて自主的に参加してって言ってるだけなんだけど、なぜそんな勝手な発言なわけ?

って。

これとは別に、最初に書いたように、人は自分の直接知らない(でも存在だけ知った)人に対して、勝手な自分の意見を展開します。

聞かれてもいないのに。

これは、言っている自分が”正しい”という前提での意見なので、やはり自己満足。

以前書いた、息子のいじめの話で言うと、いじめられる側の気持ちも、いじめてる側の動機も無視して、行動だけを賛否で分けている状態。



誰かの意見を、求めていないのに聞かされてうんざりするとき

実は、自分の何が写されているのか気づくチャンスなのかもしれません。

だって、知らない(自分が体験していない)感情には反応できないはずだから。

今うんざりしているのも『私はあなた方とは違います』という意思が反映しているんですね。もうそのステップ終了して、わたし一段上にいます。的な

これは自分への戒めとしても書いていますが、

そこに気づいてやっと、何かが変わっていく気がしています。

だから

ペンネームにアスラン。常に心のうちに声をもらえるようにと。


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