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誰かの誇れるひとに。

             (約1,000字)

苦しい局面をむかえている誰かの
脳裏によぎる人になりたい。

どこにいても、誰といても、なにかが足りていないと思うのは、自分に穴があるから。

満たされていない何かの正体は、人それぞれ違うにしても、大抵の人は満たされない部分を抱えて生きている。

リアルで(目の前に)悲しむ人がいたら、
その場で抱きしめてあげればいい。

あるいは、手を握って、気がすむまで
側にいてあげればいい。

SNSでは、その画面を開かなければ
誰かの声が聞こえてこない。

悲しんでいる人の声を聞いても、何に悲しむのか分からないときがある。
noteで見かける短い呟いただけの言葉とか。

何のことだか分からない。

本人は溢れる感情を吐露しているのだろうが、
その一行、その一言で、誰が書き手の意図する悲しみすべてを理解できるだろう。

書き散らして、本人はご満悦かもしれない。

読んだ人は、得も言われぬモヤモヤが残る。

それは、誰かの役に立ちたくて生きているからだ。

無力感と、こころの中に理由の分からぬ悲しみを落とされた気分になる。

私はコメントすることがあるが、書き散らす人というのは、得てして他の人からの言葉を必要としていないことがある。
しかも、自分のほしい言葉でない場合、激怒することもある。

私は理由の分からない
書き散らすだけの人には関わらない。

冷たい人と思うだろうか。

その場しのぎの甘い言葉は、
実は何の役にも立たないと知ってほしい。

その場しのぎは、麻薬みたいな薬。
何度も必要になる。

甘い言葉を掛けることは、凹んだ満たされない気持ちの足しにはならない。
ただ寄り添うことが親切で、優しい行動と信じている人もいる。

根本的な弱さを取り除かないかぎり、安息はないと学んでほしい。

ひとの心は弱くて脆いけれど、その弱さを
本人が認めて理解しない限り、解決の糸口は見つからない。

誰かの信用をほしいのなら、
誰かの盾になりたいなら、
誰かの心の拠り所になりたいなら、

自分がヒトを守るだけの器量がなくては
何も残せない。

私はビビリで、怖がりなところはあるけれど、
書くチカラはあると信じている。

書く人を守ることは、書くことでできる。

もし、悲しみに暮れている人がいたら、
そういう気持ちを汲み取る感情は持っている。

見守ることも優しさだと思う。

私は、noteでそういう優しい言葉に出会えて、
歩きだす決意をもらった。

すぐ泣くけれど。

書いていて、自分で泣くこともあるけど、

傷つけずに、
気持ちが前向きになれるように導くことが
出来たら、と思っている。

あなたは、誰かの誇れる人ですか。

私は、たぶん、誰かの誇れる人です。


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