記憶と土地

私の記憶に強く紐づいているものは、
昔に住んでいた土地の景色であることが多い。
出来事や人間の姿ではなくて、景色。
過ぎた歳月の分だけ、景色だけがぼんやりと重なっていく。
ふと思い出す、景色の細かなディテール。
色味、温度、質感を、指で触れて辿るように思い出す。
もう存在しない景色、もしかしたら現在も似たような姿や形を留めているのかもしれない。
そんなはずはない、景色とは写真のように留まることは無いのだ。

記憶に大部分を占める馴染んだ土地から遠く離れた場所に来た者は、
その記憶に結びついた景色が、より一層、強くはっきりと失われたものとしての情景となっていく、そうしようとする。
気安く訪れることはできないし、長い年月が過ぎてしまったので、現実にあるものとして信じることはできない。この世に無いものとしての輝きを与える。
それを与え得る事が出来る唯一者としての私があり、創造主としての遊び、絶対性がある。誰かと共有することなどできない。


新しい景色
私の住む街、まだ馴染んでいるとは言い難い。異邦人でありたいという願望がそうさせているのかもしれない。
日用品や食材を買う幾つかのスーパーマーケット、週に2度ほど自分で定めた境界を越えて遠出する。景色を観る。気に入った景色が私に刷り込まれていく。
鉄道の線路を二つ越える隣り街、心理的にも近いようで遠い。私の住む街と殆ど変わらない同じような作りをしている。そこには、ある人がいて、ふた月に一度ぐらい会いに行く。
道すがら馴染みがない景色の一つ一つが鮮やかに見える。
きっと何年か後、もしくは死に間際などに懐かしく思い出す景色として現れてくるのだろう。それぐらいに瑞々しかったり、辛く冷たかったり、私の目に映る。


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