2023年度 第1回リレー小説

リレー小説
                  千葉大学文藝部有志

 甲高いアラーム音が耳元で鳴り響き、私は呻きながら寝返りを打った。手探りでスマホを探し、画面をタップしてアラームを止める。
 眠っていた脳が徐々に覚醒していくにつれて、私は違和感に気付いた。家の中がやけに静かだ。いつもの朝の騒がしい喧騒が全く感じられない。
 寝坊のしすぎで家族は皆出かけてしまったのか? と考えスマホを起動したが、いつも通りの起床の時刻だった。不審に思いながら一階のリビングに移動する。
「……そんな」
 リビングは静まり返っていた。父も母も、妹の姿も見当たらない。父のスマホや母の財布がテーブルの上に置いてあることから、二人が外出したという可能性は消える。
「どういうこと……?」
 突然の事態に混乱する私だったが、やがて机の上に見知らぬ封筒が置いてあることに気が付いた。黄色い封筒、そして表面に『読め』と殴り書きされた文字。私は恐る恐る封筒を手に取り、中の便箋に目を通した。

「Dear Eric.
 お久しぶりです。私の名前はRaymond Gardnerと言います。二年前、あなたが篠宮高校の三年生の時に、夏休み前の二週間だけMs.Nagaokaの代理として英語表現の授業を受け持ったのですが、憶えているでしょうか?篠宮高校は非常に印象的な場所で、私は夏が来るたびに校舎裏の竹林のざわめきや、正門前の蓮の群生した池が真夏の太陽をきらきらと跳ね返すさまを思い出します。来日間もない私の目には、日本古来の自然風景は神秘的、かつこの上なく美しく映りました。生徒たちも皆、日本語の拙い私を温かく歓迎してくれましたね(当時は皆さんの名前を覚えられずごめんなさい。今では日本語も格段に上達しました)。
 当時のように、君のことをEricと呼ばせてください。この便箋をEricがどのような状況で読むに至るか私には分かりかねますが、唯一つ言えることは、重大な事情のため、私はいまあなたの家族と行動を共にしているということです。ここに詳しくは書けませんが君の一歳下の妹、「Nancy」に関することです。君を不安にさせてしまい、申し訳ありません。でも、これ以外に方法がなかったのです。Nancyと君の両親は無事です。けれどはっきり言って、そう長い間の無事を保証できるわけではありません。
 懐かしの母校、篠宮高校を訪れてください。この黄色い封筒も携えて。行ってみれば事の全容が掴めると思います。
 夏休みに入る前日、私の最後の授業を覚えているでしょうか?最後の授業で私は、個人的に敬愛する短編小説家の有名な一節を紹介しました。「You cannot take back what you have once lost.」、つまり「一度失ったものは二度と帰ってこない」という意味です。Nancyには時間がありません。今ならまだ大切なものを失わずに済むのです。
 私は一週間後にはTexasの農園に帰国しなければならず、以後、愛すべき日本の地を踏むことは二度とないでしょう。それが全てを完遂するまでのタイムリミットだと思ってください。
 君の大いなる勇気に期待して Raymond Gardnerより」
 
 B5サイズの畳まれた便箋を机に投げ出して、私は物足りなそうなソファの上でしばし呆然となった。そのまま布は沈んでいった。徘徊老人の捜索願が町内放送の合成音声で流れ始めた。私の右耳から入って、脳みそを好き放題にかきまわしていった。冷静になることはできなかったが、慌てることもできなかった。
 放送が鳴きやみ、刹那、私のなかで、あの「縦長男」の像がちらちらと現れ始めた。そういえばそんな名前だったかな、と、おぼろげに思い出された。あのノッポは、短い授業の間に、私に嫌というほどの印象を植え付けた。奴は、私にとって諸悪の根源であった。そして、一生の師でもあった。
 立ち上がる気力もなかったが、篠宮高校へ向かわなければならないのだろうと考えて、平知盛自決を想い起すような重体を持ち上げた。黒褐色のリュックサックに、手紙と水のペットボトルを乱暴に放り込んだ。着替えるのは面倒だった。かけてあった、父親のへなけたコートを羽織って、リュックサックを背負った。ふと思い出して、一度部屋に戻って、デスクに置いておいた黒縁の写真立てと懐中電灯をリュックサックへ、引き出しに隠し入れていたアーミーナイフを内ポケットに突っ込んだ。

 篠宮高校は、私の自宅から歩いて10分ほどの場所にある古い公立高校だった。閑静な住宅街に溶け込んでいる母校からは、日曜日の朝だというのに部活動の騒音が漏れ聞こえてくる。かつての私がそうであったように、彼等も青春に打ち込んでいるのだろうか? 生憎今となっては、そんな風に思いを馳せる余裕も無くなっていた。
 暫く通い慣れた道を急いでいると、思ったよりも早くに赤く錆びたフェンスが姿を現した。グラウンドを覆うそれらの隙間からは、群青色のジャージの群れが忙しなく動いているのがよく見える。僅かに懐かしさを憶えながらも、私はそのままフェンス沿いを歩き続けた。そうしてようやく、母校の正門に辿り着いた。
 一年以上跨ぐことのなかった敷居を越えながら、私はまっすぐ彼の元へと向かおうとした。何度も通った生徒用昇降口への道へと足を向けながら、私はふと、自分がもはやここの生徒でないことを思い出し、足を止める。正門を挟んで反対の方向にある来客用玄関の存在を思い返しながらも、私は時の流れの早さを呪った。

 学校の来客用受付に来た私は、どう説明しようか皆目見当がつかなかったが、その心配は必要なかった。事務員が私が抱えた黄色い封筒を見るや否や、彼は応対スマイルから神妙な面持ちへと表情を急変させ、私を会議室に通したのだ。
 『この黄色い封筒も携えて』
 レイ先生の手紙が頭をよぎった。黄色い封筒は、事務員に対して本人確認証明書類のような役割を果たしたのだ。これから私の前に表れる出来事が、重大的な極秘事項であることを突きつけられた気がして、淡い懐かしの母校への郷愁は、イヤに冷たい汗とともに流れ去った。
 
 「君の妹のルーツとなるものが、Texasの病院で見つかりました」
 私を会議室で待っていたただ一人の人間、レイ先生は会議室の冷たいパイプ椅子に対面して座った私に、ひと呼吸分の間を置いてからそう言ったのだった。軽い挨拶も何もなしに、唐突直球に放たれたレイ先生の言葉は、単純な音声としてのみ私の耳に入っているようで、意味がまるで分からなかった。
 「ありえません。南海は私と同じで、日本で生まれたはずです」
 そう抵抗するだけで精一杯だった。
 「ああ、そうそう、南海(みなみ)さんでしたね。南(ナン)海(sea)だから、Nancy(ナンシー)だと、君をEricと呼ぶ私に面白がってそう教えてくれましたね」
 あまりに動転する私を見て、落ち着かせようとしたのかこれまた唐突に昔話をする先生。二年前と同様の掴みどころのなさは健在であったが、今はそれに付き合う気にもなれなかった。
 「テキサスに南海のルーツがあるわけないじゃないですか。南海は日本で生まれたんですよ。私の両親がそういってるのだから間違いないです」
 「ああ......両親はそう言ってるかもね」
 静かにそういう先生。
 「だが、当の君の記憶はどうだい?Nancyが生まれた時、君はまだ一歳だっただろう?だから、君は当時を覚えてるわけがない。もちろんNancyもだ。だとしたら、君が持っているNancyのルーツに関しての情報源は君の両親しかないわけだ」
 両親が、嘘をついている?考えたくない疑念が脳内を支配する。
 「絵里!」
 そんな私の視界に現れたのは、まさしく私の両親の姿だった。

「絵里、一人にして済まない」
 と、父親。
「大丈夫だった?」
 と母親。
 四半世紀以上よりそって生きてきた二人。記憶にあるよりも、多少やつれているようには見えるものの、両親とも変わりないように見えた。
 しかし、ここに両親が居るというこの状況はおかしい。なにがおかしいのかはっきり分からないけれど、違和感がある。まるで、死人が生き返ったかのような……。
「それじゃあ、詳しい話はご両親からお願いします。私は、廊下で待っていますね」
 混乱している私を気にすることなく、レイ先生は会議室を出て行こうとする。

……レイ先生?
 
 かつて、私は彼のことをレイ先生と呼んだことはあっただろうか。そもそも、どうしてレイ先生が私の家族の問題に関わっているの……?

「待ってください、レイ先生。いえ、間違えました。お久しぶりです、先生」
 会議室から出かけていた彼は、扉を開く手を止め、こちらを振り返った。
「出来の悪い弟子を持つと苦労しますね、まったく」
 振り返ったその顔は、私の両親を謀殺した詐欺師、私に人を欺くためのいろはを叩き込んだ『先生』のものだった。
 そう気が付いた途端、部活動中の生徒のにぎやかな声も教室に残った生徒たちの元気な声も消え、活気のあるように見えていた高校はあっという間にさびれた廃墟に変わってしまった。
「暗示はかけられていることに気が付くのが第一歩ってさんざん教えたでしょう」
 さびれた廃墟に残ったのは、意地悪な顔をして笑う先生と私の二人だけであった。

「先生。どうして私を呼び出したのですか」
 私の声がこだまする。茶色と灰色のフィルターを通したかのような汚れまみれの室内が、声に反応して少し軋むのが分かる。
 先生はその詐欺師の笑みを崩さないまま答えた。
「封筒に書いてあったし、先ほども伝えたではありませんか。Nancyと君の両親を預かっていると。Nancyのルーツに関することが、その行動の理由であると」
「嘘だ」
 なぜ先生はそんな分かりやすい嘘をつくのだろうか。
「先生は、私の両親を殺しました。先生のもとに両親がいるわけがないんだ」
「いいえ、ちゃんと元気ですよ。今朝も私とNancyとご両親の四人で、エッグトーストなんかを食べたりしました」
 おどけてみせる先生だったが、私は違和感を拭うことができなかった。この人は嘘ばかりつくが、相手にすぐばれるような虚言は吐かない。それなのに一貫して両親の生存を主張するのは、単に先生の頭がおかしくなってしまったからなのか、センシティブな話題で私の心をえぐりたいだけなのか、もしくは……。
「Ericさん。理解力のない弟子は嫌いですよ。……まあ、今回ばかりは状況があまりにも特殊なので、無理もないですが。いいですか。Nancyはもちろん、ご両親も生きています。私も最初は驚きました。殺したはずの二人が笑顔で私を出迎えてくださったのですから。しかし、こういくつもの事実が現実に現れている以上、私も納得するしかありませんでした。君も思い返してみなさい。察しのいい君なら分かるはずです」
 言われる前から私は必死に今日の記憶を探っていた。そして、ふと頭に引っかかるものを覚えて、掴みだす。家を出る前、テーブルの上。そこには、父のスマホと母の財布が。両親の生活している証が。
「先生……どういうことですか」
 彼はますます気持ちの悪い笑顔を貼り付けて黙っていた。私は待つ。こういうときは素直に待った方がいいことを学んだ。
 私の期待通り、先生は長い沈黙の後に口を開いた。ねっとりとした口調で放たれる言葉が脳裏に響く。
「どうやら……私たち、過去に戻ってしまったらしいんです。両親が殺される前に。いや、この表現は不正確だ。Nancyの腎臓移植よりも前に。こう言うべきでしょう」
「……は?」
 理解が追いつかない。この人は何を言っているんだ。再び私は彼の正気を疑ったが、すぐにやめた。これでは先ほどと同じことを繰り返すだけだ。まずは先生の発言が正しいと仮定するのだ。
「南海が……拒絶反応で厳しい生活を送るようになる前、ということですか」
「おお、いつもの冷静なEricさんが戻ってきましたね。そうです。Nancyが手術を受けて、その半年後にご両親が私に殺された。今は手術の数週間前のようです」
「そしたら、先生がおっしゃる南海の『ルーツ』って……」
「そうです」
 先生が頷く。
「Nancyの身体に適合する腎臓のことです。Nancyの今後を握る鍵が、Texasにあるらしいのです」
 もし、先生の話がすべて本当なのだとしたら……私は神さまに、人生をやり直す機会を与えられたことになる。

 朽ちた窓から差し込む陽の光が私の体に覆いかぶさる。胸に引っ提げたペンダントを手で包み、神に祈りを捧げるように十字架を切る、訳もなく。ペンダントのチェーンを力任せにちぎっては、床に叩きつけ踏み潰した。雲が陽を遮る。
「いつからそんな三流のSF作家に成り下がったんですか、先生。敬虔なキリスト教徒でも『神が奇跡をもたらし、過去へと我ら子羊を導いた』なんて聖書に追記されたら、今すぐにでも踏み絵に唾吐いてはヤギに食わせます」
「相変わらず、口が汚いですねあなたは……」
 先生はため息を着く。
「私が三流のSF作家かどうかは置いといて、私がタイムリープを確信したのはつい一時間前のことなんですよ。さらに言えば、あなたのおかげなんですよ」
「ますます意味がわかりませんね」
 私は吐き捨てるように言った。かつての詐欺師に抱いた憎悪が錆び付いていく。眼前の先生と呼んだ仇は、今や老いに叡智を奪われている。軽蔑の混ざった眼差しを送る。
 しかし詐欺師は私の視線を切るようにして歩みながら、口を開いた。
「『健全なる肉体に健全なる精神が宿る』。あなたは信じますか?」
「さあ、どうでもいいです」
 詐欺師は続ける。
「果たして『肉体に精神が宿る』のでしょうか、それとも『精神に肉体が纏う』のでしょうか。まあ、卵が先か鶏が先かみたいな話です。
 過去にタイムリープしている疑念を私が最初に抱いたとき、あなたを利用することにしました。さて、平生のあなたが私に両親を殺されたことをのうのうと忘れて、しかも机の上に親の所有物があっても思い出さないなんてあり得ますかね? それこそあなたは自分がこんな失態を犯しているのに何も感じない人物だったのでしょうかーーそのように育てた覚えはない」
 私は何も言わなかった。
「過去の肉体に未来の精神が宿ったらどうなるのでしょうか? 『健全なる肉体に健全なる精神が宿る』に習うのであれば、精神は肉体の過去に寄るのではないですかね。だから過去に寄った精神を持つあなたは両親を殺されたと知らなかったし、私と会って精神が未来に寄ったことでそれを思い出したのではないでしょうか」
 先生は笑みを浮かべる。
「あなたが証明してくれたのですよ、ふざけたSF作家の台本をね」
 その顔はあのときとは違えど、叡智より深く暗い何かを体の奥底でふつふつと湧かせているようだった。

「せっかく運命的に再会できたのですから、この三流作家の話をもう少し聞いていただけないでしょうか?」取ってつけたような、虫酸が走るような敬語とともに、先生は私の目を見据えた……が、すぐに窓の外へと目を向けた。滔々と語り出す。
「私は、あなたが知るように、凡夫にはおよそ想像もできないようなことを悟り、そして長くそれを『有効に』活用してきました。
 しかし、私はいつしか、得た技術や知見の後継者がいないことに気を病むようになってしまいました。私ほどの素質の持ち主は、どこにも見つからなかった。……あなたは人の記憶はどこにあるのか、知っていますか?」
 黙っているわけにもいかず、応える。
「……頭に決まっているでしょう。何を言いたいんですか?」
「残念です。私はあなたに、『複雑に見えるものほどその実際は単純であり、単純に見えるものほどその実際は複雑なのだ』と何度も言ったでしょう? 記憶の実際とは、脳味噌のみに貯蔵されているものではない。全身です。五臓六腑全てが、それぞれに記憶を有している。これを知った私は、私の中で最も重要な記憶を有する臓器を探りました。そして、その臓器が『腎臓』であることを突き止めました」
「まさか」と、私の口からこぼれた。まだ何も分かってはいないのに、直感がそうさせたようだった。先生は動じず、唇に人差し指を当てた。
「静かに。私の話はまだ終わってはいません」
「先生はまた嘘を言っているのですね」縋りつくように尋ねる私に、「それはあなたの審判に委ねます」と、先生は再び語り始めた。
「私は、Texasの病院で、ついに求めていた人を見つけました。腎臓移植を求めている、小さな子。私は医者たちを『丸め込み』、その子に私の腎臓の一部を植え付けました。腎臓と共に宿った私の記憶の断片が、いつか実を結ぶ時を思いながら。そうして長い時を待ち、ついに私は、腎臓を受け継いだ者と会うことができました。ついさっきのことです」
「馬鹿げた話ですね」耐えられなくなった私は、先生だった人の口上に口を挟んだ。「タイムリープがなんだかんだと言っていた。次は、腎臓に記憶が宿るとも言い出す。とっちらかったホラ話がお好きになったのですね。大人しくボケていればよかったのに、どうしてそう素敵な老い方ができるのでしょうか」
「現実を受け止めきれずに、私にあたるとは浅薄ですね。それに、ちゃんとタイムリープとこの話は繋がるのですよ」
「どういうことですか」
「タイムリープする直前、私は……私の腎臓に殺された」
「……つまり」
「あなたの妹である南海が、私を殺した。それがタイムリープのきっかけだと言っているのです」

  そう怪しげに話す先生を私はただ呆然と眺めていた。タイムリープ、腎臓、南海。何もかも奇怪に思えてくる。一体先生は何を話しているんだ? いや、この詐欺師は何を企んでいるのだ?
 「あなたの妹は私の記憶の影響を受けて精神が歪み始めていたのです。腎臓に乗り移った私の記憶は禍々しい性質のものであった...他者の腎臓による記憶改竄が招く副作用をこの私ですら完全に予測出来ていなかったのです」
「腎臓を移植した時からあなたの妹は歪み始めていました。腎臓に宿った私の記憶は性質が悪性でした。自分の記憶を他人に移転することの副作用を私は何も理解していなかったのです...」
 そういえば先生の右ほほが若干たるんでいる。先生は嘘をつく時には右ほほがたるむ癖があったんだっけ。そうか、先生は昔みたいに私をからかうのが目的なんだ、それに違いない。
 「馬鹿馬鹿しい。先生のホラ話にいつまで付き合っていないといけないんですか。もう昔の私とは違うんですよ」
 私はそう言い捨てると先生に有無も言わせずに廃墟の一室を飛び出した。先生が後ろから何か叫んでいるが知ったことではない。早くこの場所から抜け出さなくては。さもなくては何か非常に恐ろしいことが起きてしまう。廃墟の薄暗がりの中を半狂乱のように駆け回る私を先生が追いかけてくる(それにしてもこの廃墟は何だろう。病室のようなものもある。廊下の案内板も英語じゃあないか)。
 
 廊下の突き当りに木漏れ日が差し込む鎧扉見えたを見つけた。あの鎧扉を開ければこのいまいましい廃墟から出られるに違いない。
「その扉はまだ開けてはいけない!あなたのお父さんとお母さんがどうなってもいいんですか!」
 後ろからそう叫ぶ先生を意に介さずにやっとの思いで鎧扉をこじ開ける。しかし、目の前に広がっていたのは私の想像をはるかに超えた光景だった。事態の深刻さを私はこれっぽっちもわかっていなかったのだ。事態の深刻さを私はまだこれっぽっちも理解していなかったのだ。

 扉の先は外ではなく、小さな裏庭だった。
 目の前には噴水があり、それを囲むような円形の通路。そこから更に正面、左、右の三方向に通路が伸び、小さい頃に一度行った植物園で見たような、名前も知らない大きな植物がその周りに植えられている。
 そして何よりも目を引いたのは、噴水の正面とその水面を真っ赤に染める鮮血。間違いなくこの血液の持ち主は死に至っていると直感せざるを得ないほどの赤がそこには広がっていた。
「……そこを閉めろ」
 裏庭に気を取られていて、先生がもうすぐそこまで近づいているのに全く気が付かなかった。後ろから慌ただしく伸びてきた腕が扉を閉める。ここまで余裕の無さそうな先生というのも珍しい。
「信じがたいような、荒唐無稽な話をしているのは分かっています。逃げ出したくなる気持ちも。ですが、この扉だけはいけません」
 そう告げる先生の口は震えていた。
「あなたからはどう見えているのか分かりませんが、私も死ぬのは怖い。ましてや一度経験しているのですから尚更」
「……怖がっていたようには到底見えませんでしたが」
「そう振る舞っているだけですよ。心の中というのは誰もがその言動から勝手に予想しますから。」
「Eric、 手を貸してくれなどとは言いません。これは利害の一致です。あの悪しき私の腎臓を、未来から私の後を追ってきたあの悪魔を、共に……」
 先生の口から放たれる、まるで用意してきたみたいな饒舌な台詞回しに、息を呑む。
「殺しましょう」

「こ、殺す?」
「そうです。もはやそれ以外の選択肢は残されていません」
 先生の発した言葉の意味を理解するのに数秒を要した。その言葉の意味を理解した瞬間私は激昂し、先生が着ている白衣の胸元を掴み、捻り上げた。
「何を言っているんだお前は!」
「実の妹を殺す、そんなことは絶対許さない、ですか?」
「当たり前だ!」
「やれやれ」
 先生は呆れた表情を浮かべながら首を振った。
「一つの視点からしか物事を考えられない短所、改善されていませんね。やはり貴方は出来が悪い」
 私の中で何かが弾けた。腰元に提げていたアーミーナイフを素早く抜き、先生の胸元めがけて投げつける。先生がこのナイフを避けることは織り込み済みだ。先生が避ける動作を先読みし、流れるような動作で回し蹴りを叩き込む。
 先生の動きを先読みした私の動きを、全て先生は読み切っていた。私に武術の全てを授けたのは先生なのだから、直接対決して勝てるはずがない。それを頭では理解していたのだが、溢れ出る怒りの感情に突き動かされてしまった。
 案の定、先生は私の回し蹴りをひらりとかわし、一瞬で間合いを詰めて私の腹めがけてボディーブローを放った。体を捻ってクリーンヒットこそ免れたものの、衝撃が全身に伝わり私の動きが止まる。
「攻撃のパターンが単調ですよ」
 次いで先生が放った前蹴りを、私は両腕でガードしたはずだった。しかし先生のつまさきはガードをすり抜け、私の額にクリーンヒットした。あ、テコンドーの蹴り技か……、と思い至った瞬間、私は地面に崩れ落ちた。
「私と戦っても無意味なことがよく分かったでしょう?」
「ふっ……ざけんな……っ!!」
 立ち上がり、再度攻撃を仕掛けようとした私を先生が手で制す。
「これ以上貴方にダメージを与えるつもりはありません。出来の悪い弟子でも一応戦力にはなりますからね」
「戦力……?」
「これからの戦いに、貴方は必要不可欠な存在です。いいですか、殺す=妹がこの世から消える、とは限らないのですよ」
「……??」
「私の腎臓を移植されてから歪み始めた貴方の妹は、本来の妹とは似て非なる別の存在になりつつあります。人智を超えた化け物になりつつある妹を殺し、その上で本来の妹の姿を取り戻す。私が言いたかったのはこういうことです。貴方のための提案だったのですよ」
 それなのにいきなり攻撃してきて……、と先生がぼやく。先生の言葉の真意を理解した私は、自分の早とちりを反省した。
「分かりました。では、すぐに妹のところに行って妹を倒し、本来の妹を取り戻します。妹がいる場所を教えてください」
 先生が盛大な溜め息をついた。
「馬鹿ですね」
「ふえっ!?」
「すぐに赴いて倒せるなら、私一人でとっくに倒していますよ。それが出来ないから厄介なのです」
 先生は足元に転がっていたバッグからタブレットを取り出し、画面を見せてきた。
「ご覧なさい。貴方の妹の変わりようを。貴方の妹の力の強大さを。貴方の妹のせいで、どれだけ世界が変わってしまったかを」 

 先生が見せたのはたった30秒の動画だった。けれど、その動画は絵里に事態の「異質さ」を実感させるのに十分だった。
 動画はやや小さめのサイズのベッドに横たわる女性を映し出していた。いや、横たわるという表現は不正確で、彼女は両方の手首と足首、さらに首にまで拘束具が取り付けられ、ベッドに固定されていた。日本人のなのに少しだけ茶色味がかったその長髪は、いつものようにヘアゴム後頭部に丁寧にまとめてある。妹の南海である。
 白衣を着たヒスパニック系の顔立ちの男性が、南海の拘束されているベッドに近づき、手首の脈を測った。それから足首に取り付けられた電子器具の数値を読み取り、手にしたクリップボードに細々とメモし始めた。彼は慎重かつ事務的な手つきでその作業を進めた。きっと有能な研修医なんだろう、と絵里は思った。その時だった。
 まるでメデューサに石化されたみたいに、ピタリと彼は動きを止めた。そのまつ毛一本さえ動かなかった。そんな硬直状態が10秒ほど続き、そして彼は倒れた。立てかけた本が倒れるような、まさに非生物としての転倒だった。南海は幸せそうな表情で眠っている。
 倒れた男は無表情のまま天井を見上げていた。。いや、実際にはその両眼には何も映っていないのだろう。男の遺体からは蒸気が湧き出し、1分もするとその場には真っ赤な血溜まりだけが残った。ほんの少し前まで、あのヒスパニック系の、短い髭をたくわえた男がそこに存在していたという事実は嘘みたいだった。南海は何も知らずそばで安らかに眠っている。そこで動画は終わった。
 「これが今起きていることなのです。映像を見せたからには、あなたもそろそろ信じざるを得ないと思いますけどね」
 先生は場違いに気楽な、まるで明日のお天気の話をするみたいな口調でそう言った。煙草の箱から一本を慣れた手つきで取り出し(銘柄は当然「アメリカン・スピリッツ」である)、愛用のジッポ・ライターで火をつけた。
 「ええ、先生のお話が事実であることは認めます。確かに、もう信じざるを得ないでしょう。それでも、私にはまだわからないことだらけなのです。個別の事実は全て認めます。ですので、決定的に何が起きているのか、これらの底に何が眠っているのか、その回答が欲しいのです」
 先生は煙をぼわっと真上に吐き上げた。動画内の男性の命が帰したものによく似た血溜まりが、この裏庭にもいくつかあった。
 「運命共同体となってしまった今、全てを話しましょう。まず、十年前のハロウィーンの晩のことを話します。テキサスの私の自宅に日本人の少年──つまり君ですが──が突然押しかけて来て、拳銃で私の命を狙いに来た時のことです。このように暗殺を家業にしている以上、刺客の来訪には多少の免疫がありますが、まさか相手がまだ8歳の少年だと知った時には驚きました。しかも君を捕えた後で話を聞くと、私が以前殺害を請け負った、葉梨夫妻の息子だというではありませんか。その時は久々に興奮しました。君の来訪は、私にとってハロウィーンのプレゼントでした。私の存在を突き止めた嗅覚と、その勇敢さ。まさに暗殺のために生まれたような子だ、と思いました。そして実を言えば、私にとってそれは特別不思議なことではなかったのです。これは君にとって初めて聞く話かもしれませんが、君は亡くなったご両親の職業について何か聞いていましたか?表向きは健全な職業を名乗っていたかもしれませんが、じつはお父様はとびきり才能のある殺し屋だったのです。ですので君が暗殺の才能を授かっていても当然なのです。私はこの才能は自分の手で育てなければならないと思い、多少強引にですが、君を私の弟子に迎えることにしたのです。実際今日まで、君はほぼ私の期待通りにスキルを身につけてくれました。
 君はメキメキと技術を身につけましたが、ただ一つだけ、君には伝授できない技能がありました。君の両親を殺めるのにも用いた、遠隔殺人の技術です。正直に言って、私も原理は理解していません。私にとっても過去数回しか経験がないのですが、相手の生命を断ち切ることをこれ以上となく強烈に願うと、ふと頭がトランス状態に陥って、まるでハサミで糸をすぱっと断ち切るように、相手の生命を奪えるのです。きっと、これは私が暗殺の神様に愛されていた、としか言いようがないのでしょう。この技術は不可能とも思える暗殺を可能にし、私を殺し屋の史上最高傑作へと押し上げたのです。
 この技術を伝授するために、あなたの妹に私の肝臓を移植しました。君と同様、ご両親から授かった素晴らしい才能と、私の記憶の宿った肝臓があれば、私を上回る殺し屋が誕生すると思ったのです。彼女の入院中も、私は来るべき能力の覚醒の時を待望しつつ逐一術後の経過をチェックしていました。
 進展があったのは昨日のことです。彼女が昏睡状態に陥ったと報告が入りました。私は内心焦りました。能力の覚醒が起きることなく、肝臓の不適合のせいでこのまま彼女は死んでしまうのではないか、と思いました。彼女の生命を救うため、私は専属の医師たちと夜通し方策を検討し合いました。その晩のことです。私は不思議な幻想に捉われました。私の身体の中に一本の糸が通っていて、それがハサミでプツンと切れる幻想です。それは私が遠隔殺人をするときのイメージと酷似していました。
 私が覚えているのはここまでです。目を覚ますと私は地元テキサスの空港にいて、カレンダーは一様に数年前を示していました。きっと南海が私を殺したのだろう、と今は確信を持っています」
 先生は短くなった煙草をその場に捨ててカカトで踏んづけた。
 「では、先生はなぜ死ぬことはなくタイムリープしたのですか?」
 「きっと、私と彼女が肝臓を通して同じ記憶を共有していたからでしょう。記憶が肉体に宿る以上、私の肉体が滅べば彼女の記憶の一部も消失してしまいますから」
 「ではなぜ私も先生と一緒にタイムリープしたのですか?」
 「兄弟である君と南海は同じ血を共有していますから。殺すに殺せなかったのでしょう」
 絵里は噴水前の血溜まりをじっと見つめた。もし兄妹でなかったのなら、こうなっていたのだろう。
 「南海の能力は本人の意思に反して暴走してしまったのです。今頃、我々が本来いた世界では数えきれない人間が殺害されているでしょう。一年もあれば、人類は皆絶滅してしまうペースです」
 先生はまた、他人事みたいに呟いた。「やはりテキサスの空はいいものです」と言って、その場で大きく伸びをした。
 「先生、ならば我々はどうすればいいのでしょう?世界を救うために何ができるのですか?」
 「なあに、簡単ですよ」
 先生は今日一番の笑顔を見せた。
 「今の日付を正確に教えましょう。2003年10月24日です。両親殺害の前日、さらに言えば君が私を襲いに来るちょうど一週間前です。そしてここはテキサスの北東部、私の住居からは10kmといったとこです」
 テキサスの広大な大地は乾き切っていて、どこまでも続いていた。
 「つまり、私を殺してしまえばいいのです。今度は私に捕われることなくね」
 先生は並びの良い歯を珍しく口の隙間からのぞかせながらそう言った。
 「私はこの廃屋で待っています。弟子の成功、つまり私という存在が消え失せてしまう瞬間を楽しみに待っています。手紙に書きましたが『You cannot take back what you have once lost』、つまり、一度失ったものは二度と取り返せないのです。でも、本当に失うまでは徹底して抗うべきなのです」
 絵里は自分の感情を表現する適切な言葉を探すのにひどく苦労した。感情の正しい棲み分けを策定することは、現状不可能だった。絵里は限りない戸惑いの中にあった。
 だが少なくとも、テキサスの空は素晴らしくよく晴れていた。

 私は何かを言おうと暫くもがいてみた。けれど結局、全て考えても仕方のないことだという結論に至ってしまった。
 今、私の目の前で呑気に微笑んでいる先生は紛れもなく全ての元凶だ。過去——いや、今が2003年なのなら未来だろうか? いずれにしろこの男は、私の両親を殺し、南海にあんな苦痛の日々を味わせた。今からそれを阻止できるなら、何を迷うことがあるのだろうか?
「どうしました? そんな風にただ突っ立って」
 私が自分を納得させようとしていると、先生が揶揄うような調子でそう声をかけた。
「まぁ受け止めきれないのも無理からぬことでしょう。何せ私が言ったことは全て……酷く非現実的だ。けれど君は私を殺さなければならないのです。それが貴方と、貴方の家族のためになるのだから」
 そう、その通りなのだ。例えどんなに突拍子がなくとも、私は、この男を。
 私が一歩踏み出すと、先生は道を開けるように僅かに横にずれた。
「ようやく、やる気になりましたか。それでこそ期待通りの私の弟子です」
 先生の退いた先には、さっき私が投げつけたナイフが地面に転がっている。窓から注ぐ光が反射し、血液一つ付いていない金属の色が目に眩しい。
「……先生を殺せば、全て終わるんですね?」
 ナイフを目の前にして、私は振り向きもせずにそう尋ねた。
「えぇ、さっきからそう言っているでしょう?」
 先生の表情は見えなかったが、言葉の調子は酷く穏やかだった。その声が無性に、私の殺意を掻き立てた。なぜこの男は、こんなにも平静でいられるのか? それともそう振る舞っているだけなのか?
 私は湧き上がった殺意のまま、復讐をしにドアを叩いたあのハロウィンの晩の感情のまま、先生を殺してやろうとナイフを拾い上げた。

 ——ナイフを"拾い上げた"——?
 私の手はそこで止まった。背後からは、先生の舐めるような期待の視線が押しつけられている。
 気味の悪い沈黙が数秒流れた後、ついに私は口を開いた。
「先生、一つ聞いても良いですか?」
 指先に触れるナイフの持ち手の硬さを感じながら、頭の中の疑惑が確信へと変わっていく。
「先生は何故……私が投げたナイフを躱したのですか?」
「——はい?」
 先生の表情が、僅かに強張った。
「何故、ナイフを躱したのか聞いているんです」
 指先で持ち上げかけていたそれは、音を立ててアスファルトの地面に落ちる。
「初めから殺させるのが目的なら、先生はあの時殺されることができた筈です」
 それだけじゃない。2003年、テキサス、自宅、父のスマホ……時代と場所の明らかな混同が、如実に物語っている……。

「これは暗示ですね?」
 そう口にした途端、急に意識がはっきりとした。同時に鼻にまとわりつく鉄の匂いと、視界を埋め尽くす赤黒い痕跡。
 私の意識は、いつも"授業"をしていた廃墟の裏庭へと帰ってきていた。
「そこまでの理解力を、あなたに求めたつもりはなかったのですがね」
 聞き慣れた声には、落胆とも困惑ともつかぬ色がのぞいている。顔を上げた先には、壁にもたれかかったあの男がいた。
「あのまま暗示の中で私を殺せていれば、最後の術もあなたのものになっていた筈なんですがね。エリック」
 淡々と語る先生は、壁から離れて私の元へ近づいた。
「一度あなたが仕損じた時、もう一度一から暗示をかけ直すべきだったのでしょうか?」
 不意に私の頭を掴んだ先生は、眼科医がするように私の目玉を覗き込み、そして何事もなかったように離した。
「タイムリープだとか、あの失敗作の暴走なんて言う三流小説家並みの設定がいけなかったのでしょうか」
 私の周囲をぐるぐると歩き始めながら、先生はしきりに何かを呟いていた。私はそれを眺めながら、暗示の中で混線していた記憶が、段々と解きほぐされていくのを自覚していた。
 事実は、現実では、やはりあの男が両親を殺し、妹に腎臓を移植していた。違うのは、妹が拒絶反応に苦しみあいつが殺されなかったことと、次なる後継を私にしようとしていることだ。
「いずれにしても仕方がないでしょう」
 何かに納得したような声が背後から聞こえた。振り返ると先生がいつもの笑顔を浮かべている。人を暗示に堕とす時の顔をしている。
「さぁエリック。もう一度」
 先生は、私の両肩を掴む。押し込むような力で固めて、相手が動けないような掴み方で。
「今度は異なる過程を辿って挑戦してみましょう、そうすれば——」
 けれど私は、大人しくこの男の思う通りになるつもりは無かった。思考すら覗き込もうとするような先生の顔に、思い切り頭突きをかます。緩んだ両手から逃れるように身を翻し、暗示が始まる前に先生から脱出した。
「……エリック、あなたではまだ私に敵わないということを忘れたわけではないでしょう?」
 酷く煩わしそうな様子のその男の表情が、頭突きされた部分を覆う手の隙間から見え隠れした。
「いいえ、忘れているのは先生の方です」
 男から距離をとりながら、私はそう言った。暗示の中で思い出したあの日の激情、家族を冒涜されたような悔しさが、体の中を駆け巡る。
「『You cannot take back what you have once lost』。私を後継にするチャンスは、もうやってきませんよ」

 冷ややかな笑い声が響いた。
「ずいぶんと調子のよいセリフを吐くものですね」
 先生が指の関節を鳴らし、一歩目を踏み出す。まるで準備運動でもしているかのように、首を回す。
「先ほどは失敗しましたが、今度は逃がしませんよ。抵抗できなくなるまであなたを弱らせ、催眠をかけなおすだけだ。せいぜい最後のあがきを尽くすとよいでしょう」
 腰を下げ、重心を安定させる。身体に沁みついたファイティングポーズ。男に視線を固定し、攻撃に備える。
 トン。トン。トン。破裂しそうな心臓も、いつか学んだ呼吸法のおかげで何とかなっている。

 大丈夫だ。今の私なら、この男を倒せる。

 先生が二歩目を進めた瞬間、彼の姿が消えた。いや、消えたように見えるだけだ。私はそれを予期していたから、突如として目の前に現れた男の正拳突きを、落ち着いて右手で払った。続けて中段の逆突き。もう片方の腕で守る。次は反撃だ。無防備になった先生の腹部を右足で蹴り上げようとしたが、先生は目にもとまらぬ速さで引いた腕を盾にした。脚に筋肉の感触があると同時に、足首を掴まれる。私は左足だけで直立した、不安定な姿勢になる。
 やばい。そう思うと同時に左足で跳ねて、そのまま空中で先生の右手を蹴り払う。うまくいったようで、私の右足が自由になった。宙に浮いたまま受け身の姿勢を取り、先生から離れるように転がった。
 しかし先生がその機を見逃すはずがなかった。体勢を立て直す前に蹴りが飛んでくる。何とかそれを防ぐものの、続けて放たれる腹部への突きに反応が間に合わなかった。みぞおちが歪み、吐き気を伴った鈍痛が意識を散らす。もう一度、突き。避けきれないと判断し、身を引いて衝撃を和らげながら距離を取る。
「所詮その程度じゃないですか。早く諦めてしまいなさい」
 嘲りの声が聞こえるが、聞き入れる気はなかった。なぜなら、私には勝算があるからだ。タイミングさえ見逃さなければ、確実にいける。今はそれのために耐えるだけだ。
「先生の思い通りになんて、なりません」
 父さんが、母さんが、そして南海が。皆、この男に命を蹂躙された。私までこいつの傲慢な思想に、利用されてたまるか。

 今度は私から殴りかかった。顔面への突き。当然軽い手つきでかわされる。すかさず逆の足で回し蹴りを入れるが、これも受けられてしまった。私は先生が反撃をしてくると予想し、それに備えるが、何も飛んでこない。先生はわざと様子見の時間を作ったようだった。くそ。この気持ち悪い間がよくなくて、私の緊張がわずかに緩んだ瞬間に新たな突きが飛び出した。反射的に手で庇うが、守りが不完全なせいで、腕の受けた箇所が痛みと共に軋んだ。
「諦めなさい! あなたには倒せないのです。どうあがいても!」
 また、みぞおち。もろにくらって、容赦ない打撃に思わず腹を押さえる。間髪入れずに突きが入り、私は仰向けに倒れこんだ。先生は勝ち誇った表情で、私に馬乗りになろうと飛びかかる。片方の腕で私の身体を取り押さえ、もう片方で私の顔を殴りつけようとする。そんな姿勢だった。

 その時、頭の片隅で、カチリと音が鳴った。

 —―今だ。

 きっと、先生はもう私が一方的にやられる姿を確信しているのだろう。しかし、そのようなことにはさせない。いや、むしろ私はこの瞬間を待っていた。先生に悟られないほど自然に、逆転のきっかけを作り出せる瞬間を。
 私が倒れこんだ傍には、あえて放置していたアーミーナイフが転がっている。そして、先生の不安定な体勢。完璧だ。
 私は素早くアーミーナイフを拾い上げた。しかし、そのままナイフで先生を攻撃するのではない。いくら先生の姿勢が脆くなっているとはいえど、その単調な動きでは先生の防御を崩せるわけがないからだ。だから、代わりに私はナイフの切っ先を自分の首元に向けた。
 先生の顔が、分かりやすく強張った。
「おい、やめろ」
 当たり前だ。先生の目的は私の洗脳なのだから、私が死んでは計画が水の泡になってしまう。あくまでも先生は私を「殺さない程度に痛めつけ」ようとしているのだ。それを、逆手に取る。
 先生がナイフを払おうと、手を伸ばす。その体勢が、元々予定していた着地と大きく異なるものであったので、先生の身体がぐらつく。私はその瞬間を見逃さない。
 不安定に不安定を重ねた、予期せぬ体勢。そして先生自身の、動揺による注意力の一時的な欠落。

「引っかかりましたね」
 今にも私に刺さりそうなナイフが、急に方向転換して、先生の喉元を向いた。

 周到な策略によって生み出された二つの要因によって、先生は突然の攻撃に対応しきれなかった。飛び出したナイフは、先生の防御をすり抜けていった。
 私に自殺するつもりなどさらさらない。全ては先生の隙を作り出すためのプラフだ。
 一度きりのチャンスを、私は無駄にしたりしない。

 力を込める。鋭いナイフの刃は、先生の喉に深く刺さった。

「がはっ……」
 大量の血飛沫を振り撒きながら、先生は後ろ向きに倒れた。
 喉に刺さったナイフを抜いて反撃しようとする先生に飛びかかり、今までのお返しとばかりに打撃を加えた。殴り、蹴り、そして踏みつける。先生が動かなくなったところで私はナイフを握り直し、先生の心臓に深々と突き立てた。

 終わった。

 血塗られた空間に響くのは、荒々しい私の呼吸音だけ。私はナイフを投げ捨て、顔に飛び散った鮮血をそっと拭った。

 ……何だ?

 全ての元凶である先生を倒したはずなのに。
 これで全てが解決したはずなのに。
 この押し寄せてくる不安は何だ? 
 何かを見落としている気がした私は、今までの出来事を頭の中で回想した。そもそも、どうしてこんなことになった? 南海、博士、肝臓移植、タイムリープ……。
 その時。
 私は自分のミスを悟った。
 何故、心臓をナイフで刺して終わりだと錯覚してしまったのか。
 肝臓、肝臓、肝臓……。何回も聞いたじゃないか。この戦いのキーポイントは肝臓だった。ならば、先生の肝臓をナイフで貫くべきだったのに。
 投げ捨てたナイフを急いで拾い上げる。しかし、頭では既に理解していた。もう全てが手遅れだということを。最後の最後で私は判断ミスをしてしまったことを。

「やはり貴方は、出来が悪い」

 死体と化していたはずの先生はいつの間にか立ち上がり、死角から間合いを詰めていた。先生の肝臓が青く輝いていることを視界の端で捉えた瞬間と、先生の回し蹴りが私の右脇腹に命中した瞬間が零コンマ何秒の狂いもなく重なる。私の体は血飛沫が飛び散る壁に打ち付けられた。

「かはっ……」

 今の回し蹴りであばら骨が何本もへし折られた。折れた骨が臓器に突き刺さり、激痛が走る。

「貴方が私の心臓を刺した後に、ナイフを投げ捨てた瞬間。私は喜びよりも先に失望を感じましたよ。今までの話には全て肝臓が絡んでいました。ならばナイフを突き立てるべきは肝臓。歪なタイムリープの連鎖を断ち切るために破壊するべきは肝臓だったはず。まさかそれすら頭に浮かばないとは……」

「ぐっ……」

 蔑みの目を向けてくる先生に何か言い返してやりたかったが、痛みがひどくて声が出せない。

「私は貴方に言いましたよね? 本当に失うまで徹底的に争うべきだ、と。それが貴方の最後の抗いなのだとしたら、それはそれで構いません。永遠の苦しむを味わうのは私でもなければ南海でもなく、貴方自身なのですから」

 先生は自分の体に拳を突き立て、青く輝く肝臓を取り出した。そして私が投げ捨てたナイフを拾い上げ、痛みに喘ぐ私の体にナイフを突き立てた。

「っ……!?」

 先生はナイフを器用に操り、私の体から肝臓を引っ張り出した。かわりに青く輝く先生の肝臓が私の体の中に入れられる。とんでもないグロテスクな光景がすぐ目の前で繰り広げられているのに、私は何の感情も浮かばなかった。

「これでよし、と」

 どこから取り出したのか、外科の手術用の縫合糸で丁寧に傷口を縫合し終えた先生は、大きく伸びをした。全てのしがらみから解放されたかのような、朗らかな表情を浮かべる先生。先生から解放されたしがらみが全て私に行き着く運命であることを、途切れゆく意識の中で私は確信していた。

「貴方は悉く私を失望させてくれましたね」

「ぐ……」

「もう声は出せませんよ」

 先生の声が徐々に遠ざかっていく。意識が徐々に薄れていく。まずい。このまま意識を失えば、取り返しのつかないことになる。分かっているのに、体が言うことを聞かない。全ての元凶である肝臓が私の体の中で胎動し、あらゆるエネルギーが奪われていく。もうおしまいだ。

「次は貴方が無限にタイムループする番です。悠久に流れゆく時間の中で、己の判断ミスを永遠に後悔することですね」

 博士の冷たい声が響いた瞬間、私の意識は完全に途絶えた。

***
 この空間に飛ばされてから、何十年が経過したのだろう。

 どこまでも広がる空間の中で、私はふわふわと漂っている。実体はない。私という概念がその場所に漂っているだけだ。私の思考や感覚は別の領域に移されていて、あの悲惨な日々を無限に繰り返す苦行に晒されている。

 世界の平和の代わりに自分一人が身を捧げて無限にタイムループする羽目になった、と言えば聞こえはいい。実際にその通りなのだ。ここで私がふわふわ浮かんでいるお陰で、南海が暴走して世界が崩壊する可能性は無くなった。

 でも。最後の最後でミスを犯さなければ、こんなヘンテコな場所で無限にタイムループなんてしなくて済んだ。あそこですぐに肝臓を突き刺していれば、今頃私は南海と一緒に幸せな生活が送れていたのに。

 ふわふわ。
 悔しい。
 ふわふわ。
 悲しい。

 何億回と繰り返した懺悔や後悔を、私は再び繰り返す。そんなことをしても何も変わらないことは分かっているのに。
 
「……ん」

 ふわふわ。あーあ、悔しいな。本当にもう、何であの時肝臓を突き刺さなかったんだろう。

「……ちゃん」

 ふわふわ。私、いつまでこうしていればいいんだろう。本当に、本当に無限にループしなきゃいけないのかな。

「お姉ちゃん!!」

 瞬間。

 どこまでも広がっていたはずの空間が急速に収束した。実態がなかったはずの私に、重力が宿った。物体が宿った。これは……体だ。いつの間にか私は、人間の姿に戻っていた。

 青く輝く霧が徐々に晴れていく。私はどこかの学校の教室の中で佇んでいた。

 そして、目の前に佇む一人の女性。

「お姉ちゃんっ!!!」

 目の前の女性は南海だった。南海は以前よりも明らかに年齢を重ねていたが、見間違えようがない。数秒の沈黙の後、私は南海に抱きついた。そして泣いた。声を上げて泣いた。

「南海……!!!」

「お姉ちゃん……よかった、やっとお姉ちゃんを救出できた」

「救出……?」

「うん。博士の代わりに無限にタイムリープする運命になったお姉ちゃんを救出するための装置をずっと作ってたの。ごめんね、助けるのが遅くなっちゃって」

「そ、装置? 凄いね南海、なんか別人みたい……」

「これでお姉ちゃんを救出することには成功した。でも、やるべきことはまだ残っているよ。お姉ちゃん、復讐したいとは思わない? お姉ちゃんを無限ループの地獄に叩き落とし、私を人外の化け物に変貌させようとした、あの憎き男を」

 博士の容姿が頭の中に浮かびと同時に、煮えたぎるような怒りと憎しみが湧いてきた。頷きを返すと、南海は明るい笑みを浮かべた。

「次はこっちの番だよ。今度は私達が、あいつを地獄に叩き落としてやろう」

「うん。絶対にね」

 私は南海と拳を突き合わせた。こうして、再び博士との長い長い戦いが始まったのだった……。


                          完

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?