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山中瑶子監督『ナミビアの砂漠』(2)男と女と不在の母について

前回は『ナミビアの砂漠』とアントニオーニ作品を比較してみましたが、本論に入る前に、不覚にも長くなりすぎました・・・。「ネオリアリズム」と聞くと、ついつい熱くなります。。

反省して、前半後半に分割してみました。よろしければ、お付き合いくださいませ。

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『ナミビアの砂漠』に話をもどします。

『ナミビアの砂漠』という骨太さと繊細さを兼ね備えた作品は、大きなカメラと小さなカメラの間で逡巡するように、製作側と登場人物たちの距離を、縮めたり、つきはなすように隔てたり、ときには一体化するようにも見えます。そんなカメラと対象の距離の揺らぎが、作品としての最大の魅力につながっているようにも見えます。
それでは、カメラと人物たちの間の主客の距離は、いかに揺らいでいたのか。

『ナミビアの砂漠』の面白さのひとつは、若い男女の物語が、カナと不在の母の歴史/物語へと、徐々に転換していく点です。

そのきっかけが、物語の中盤で、カナの母親が中国出身であることが、唐突に明かされることです。いまどきミクストルーツの若者は多いし、唐突でもなんでもない、それもこれもカナの個性のひとつである、とかみたいな、反駁される向きもあるかもしれませんが。

ただ、この、カナをめぐるなにげない事実の露見が、ごくさりげなくなされるからこそ、母の不在が物語におよぼす影響力の強さを感じさせます。

昭和であれ平成であれ令和であれ、たぶんどの時代もかわらず、若者は若者らしく、彼らにとっては合理的な行動をとりながら、はたから見ると、刹那的で不安定なのだと思います。カメラは、カナと周囲の若者たちの姿もまた、現代的な風俗として一定の距離から捉えていました。

ところが、カナの生育環境の一端がふとしたことで、語られることで、カメラは、カナの内面へと分けいり始めます。カナの自己分析を補強するように、精神科医やカウンセラーがカナの心の不調について語ります。こうした過程が、カナとカメラの距離を徐々に狂わせていくことは注目すべきです。


最終部で、カナのスマホに、中国の親戚たちから騒々しいビデオ通話がかかってきます。ただ、カナは中国語を解せない様子で、ニーハオ、としか答えられません。さらに、そこにいるはずのカナの母親は、カナが呼んでも、最後まで姿を現さないことです。ハヤシはカナの失望した様子を正面から凝視します。

こうしたサブストーリーは、実母と中国のとの断絶が、結末部分で明されることで、カナの父親の存在の希薄さとあいまって、日本で生活する生きづらさを一定程度、強化することとなります。(このあたりは多民族国家フランスにおける外国人家庭の教育問題や同化政策を思い出します)。

ハヤシは、カナとは対照的な人物として設定されています。穏健な両親のもとで裕福な家庭に育ったハヤシは、次第に病むカナのケア役を担わされながらも、カナを受け入れる姿勢を崩しません。

NY生まれのハヤシが帰国後にインター(ナショナルスクール)通いを泣いて拒否した、というハヤシ母の思い出話が、ホームパーティの席上で初対面のカナに対して語られます。外国体験という表面的な共通点に対する配慮でハヤシ母がカナに対して語ったようにも思われますが、日本育ちで中国語を解さないカナの状況とは異なることを痛感するのはカナ自身です。

一方、息子について饒舌に語るハヤシ母に対して、カナ母は、最後まで娘の前に姿を表しません。

振り返れば、元カレのホンダが示した過剰なまでの庇護者ぶり(自分の出張中もカナが食事できるようにハンバーグを作り置きして冷凍し、もしくは浮気帰りに自宅で嘔吐するカナを甲斐甲斐しく世話したりもする)や、新生活の開始後に、カナが空腹を訴えてもなかなか昼食を用意しないハヤシに半狂乱になる場面も、これをきっかけに大怪我したカナが、ハヤシにむいてもらった梨を幼児のように満ちたりた様子で食すのも、つねにカナと男たちをつないでいたのが食事であり、空腹で泣き叫ぶ赤ん坊に乳を含ませて寝かしつけるような、ある種のケア関係、庇護と被庇護を示唆していました。

ホンダとの生活が曲がりなりに順調に見えたのも、一方で、「お互いを高め合える」男女関係を期待していたハヤシとの新生活が早々に破綻へと向かうのも、カナが本源的に求めているのは、食事を与えてくれる「母」的存在であったからかもしれません。雑然としながら住みよく整理されたホンダのマンションと穴蔵のようなベッドは、赤ちゃんと暮らす家のようにどこか乳臭さがあります。新居にもちこまれた毛玉だらけの毛布を握りしめるカナの人物像は、幼児性を強調するようにも見えます。

カメラは、若い男女が演じる擬似的な母子的関係を丹念に追いながら、一方で、実母とカナの実際の関係には踏み込まない。カメラは、母自身を最後まで向くことなく、母の登場は最後まで徹底して回避されます。これこそが、観客が感じ得る、カナの痛みなのだろうと。

カナが、今後、母、もしくは不在の母と、向き合うことがあるのでしょうか。そんなことは誰にもわからな

ただ、終盤近くで、カナが夢見る、唐田えりかさん演じる年上の隣人女性との交感と、幻想的な焚き火のシーンは、もしかしたらカナの未来を暗示するものかもしれないな、と思いました。次回作は、そんな暗示が、かたちとなるのではないかなあ、などと勝手な想像を広げてみます。
次は、お母さんについての話かも、とか。単純すぎですね。。


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