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表現の自由と人の業

ツイッターでグロい画像や動画がRTされていた。
画像は動く歩道に足がハマって切断することになってしまった可哀想な方のもの。目は隠されていたし、足がエスカレーター状の歩道に飲み込まれた様子だけで、そんなにショッキングなものではない。
とは言え、被害に遭われた方やそのご家族・近しい人たちがそうした画像がネット上で出回っていることを嬉しいと思うはずもない。
「注意喚起のため」というもっともらしい言い方をして広めている人もいるのだろうが、もっと他にやり方があるはずだ。
実際、数年前にクロックスが飲み込まれて破壊される様子を載せたものを見た。そうしたものを使えばいいだけで、実際の被害者の写真を広めなくてもいい。

動画の方は、中国らしいところで事故に遭った?人を繰り返し車で何度も轢く様子。不快極まりないもの。
フェイク動画だとか、ネットリテラシーがどうたらと言いながら、不快なこんな動画を広めるのはどうかしている。

ただ、人間は業の深い生き物だ。
動画の方、実は朝、興味本位で全部見てしまった。
心のどこかに、こうしたものを喜ぶ気持ちが眠っている。
それが人間だ。

だから、その業を煽るようなことをしてもらいたくない。

映画やアニメには、スプラッター表現がある。
最近見た中では、映画「シン仮面ライダー」。仮面ライダーがショッカーの頭を叩き潰すグロいシーンが冒頭に出てきた。はっきり言って不要だった。
鬼滅の刃も、鬼ではあるものの、首を切ったり体の一部が爛れたり血飛沫が上がったり、かなりグロい。
だが、世界的に人気。
Netflixで話題の「サンクチュアリ」でもけっこうな暴力シーンがあり、体の一部が損壊したり血飛沫が飛ぶ場面が続々。
これらがウケているという現実がある。
人間は他人の痛んでいる様を見て、自分の痛みとして感じつつも、それを快楽に感じるという業がある。

表現者の怠慢だとも言える。もっと控えめな表現でも、リアルに感じさせることができる。
例えばこれ。

ナウシカの1シーン

腐海から出ている有毒ガスの中でマスクを外して涼しい顔でサムズアップしたナウシカ。しかし直後にマスクをはめて「少し肺に入った」と顔をしかめる。
これだけで、いかにその空気が悪いものなのか、感じることができる。
こういうのが表現者の腕の見せ所なのではないか。
あまりにも露骨でそのまんまの過激な表現が「責めてる」と評価されるのは、違うんじゃないかと思う。

同じく、個人的なレベルで露骨な表現、グロいものを実生活やSNS上で発するのも違うんじゃないかと思う。
自分が選んでそうしたものを見たなら、その人の責任。
だが、他人に目のつく状態にわざとしてみたり、もっともらしい理屈を書いたり「これ酷いよね・・・」とSNSで広めたりするのは、人の迷惑になる。
拡散している人たちは、そこまで意識していないだろうが、その投稿が人を不快にすることがある。
悪意を持って広めている人もいる。気持ち悪いものを見せることで快楽を得る、変態的な行為にハマっている哀れな人たちも一定数いる。

だから、そうした投稿をする人はSNS上ではミュートする。ひどい場合はブロックする。
そうすることで自分の中に眠っておいてほしい人間の業を、そっとそのままにしておくことができる。

人間には負の面もある。だからこそ、正の面・明るい面も存在できるとも言える。
だったら、良い方を選んで生きていきたいと思う。

そっとしておいてほしい。僕の業を。

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