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ピアニストがソムリエになって起業する?

「ワインを日常に」をコンセプトにワインショップ、レストラン、ワイナリー事業を展開する株式会社パピーユの業務卸部門で働いています。業務卸はセレクトしたワインを全国のレストランに卸しています。
ここまでのストーリーを書いてみたいと思います。

ピアノが好き

宮島に近い広島県廿日市市で産まれ、5歳の頃から母親の影響でヤマハ音楽教室に通いピアノを習っていました。中学時代にはバンドブームもありエレキギターを弾き始め、毎晩GLAYや椎名林檎を聴きながらジャカジャカうるさい音を立てていたので、隣の部屋の兄が家を出て行きました。高校生になり吹奏楽部に入ると友人のススメでルイアームストロングを聴き、ビビッと衝撃が走った僕はJAZZを聴き漁るようになりました。次第に大学には行かなくなり中退、フリーターとなりました。しばらくはインストゥルメンタルのバンド活動などを続けていましたが、このまま広島にいても何も進展しないのではないかと思い、一緒にバンドをやっていた友人が大阪に行くというので僕も広島を出て大阪に行くことにしました。

大阪で暮らしはじめてからもピアノには集中できず飲食店でアルバイト中心の生活になっていきました。最初はアルバイト先にもピアノをやるんだと意気込んで話していたのが、次第に頑張っているようなフリをしながら生活するようになっていました。これは情けないな、何のために広島を出たのだろうと悩む日々。東京に行けば何か変わるんじゃないかという何の根拠もない期待を胸に、東京に行くことにしました。

ソムリエになる

東京に出ても尚、居酒屋でアルバイトを始めバイト仲間と毎日飲み明かしていました。ピアノをやろうと意気込んでいたのは何処へやら、、、大阪にいたころと何も変わっていないアルバイト中心の生活を続けていました。
いつの間にかバイトリーダーになっていた頃、フランス料理でシェフをしていたという年上の男性が短期のアルバイトにやってきました。彼は次のレストランが決まるまでの繋ぎで働きに来たのですが、フランス料理を食べたこともない僕は彼の話に興味を持ち、毎日フランス料理のことを質問しました。そのうち本屋に通ってフランス料理の本を買い始め、レストランについて調べるうちにフレンチレストランで働きたいと思うようになりました。これは何かの運命なのかもしれない。そう思い南青山のレストランの面接を受けました。情熱はありましたが知識も経験もない僕ですが採用してもらうことができ、レストランサービスの人生がスタートしました。

レストランに経験ゼロで飛び込んだ僕は毎日サービスの基礎、フランス料理の基礎を勉強することになります。
掃除、サービス、料理の勉強の日々を送っていたある日、お客様が1杯のワインを僕たちスタッフに置いていってくれました。シャトーラトゥールというフランスのボルドー地方の赤ワインでした。ボルドーの中でも1級に格付けされる最高級のワインで、その放つ強烈な香りの魅力に驚いたのがワインの世界にどっぷりと浸かるきっかけになりました。

それからは毎日読んでいたフランス料理の本をワインの本に変え、ソムリエの資格を取ることにしました。学生時代ほとんど勉強をしてこなかった僕がはじめて自主的に寝る間も惜しんで勉強をしました。
無事1度目でソムリエの資格も取得し、次のステップを目指してマネージャー職の経験を積みたいと思うようになりました。フレンチレストランは多くが年功序列で、20代でマネージャー職を経験することができません。フレンチレストランではなくビストロならマネージャー職も経験できると思い、赤坂のあじる亭で働くことになりました。入社してすぐにマネージャー職に就くことができ、あじる亭では店舗経営の数字管理を勉強しながら働くことができました。
ある日ソムリエ協会の主催する若手ソムリエコンクールが開催されることを知り、自分のレベルはどれくらいなのだろうと思い、出場することにしました。その年一緒にコンクールに出場したメンバーは今でも全日本コンクールで活躍したり、東京のトップレストランでソムリエや支配人として働いていて、結果として入賞はしませんでしたがコンクール出場は一生をかけて付き合う素晴らしい仲間たちとの出会いの場になりました。
更にワインオーストラリアの主催するA +オーストラリアワインスペシャリストというオーストラリアワイン大使を決めるコンクールで受賞することができ、今でもオーストラリアワインスペシャリストとして活動しています。

ソムリエが酒屋の営業をする

ソムリエを取得しマネージャー職も経験した頃、ワインへの興味はどんどん広がっています。ワインは生産者、輸入元、酒屋、ソムリエ、一般消費者と流通していきます。このうちソムリエは経験ができたのですが、他のこともできないかと思っていました。輸入元も含めて検討していたところ、縁あって酒屋とワイナリーの両方の事業を大阪でしているワインショップフジマルで働くことになりました。ちょうどその頃フジマルは東京の浅草橋でワインショップ兼レストランを出店し、少しずつ東京のレストランにワインを卸しはじめた頃で、僕は業務卸の営業として働き始めました。東京都江東区の清澄白河に大阪に次いで2つ目となるワイナリーレストランを作ることになりました。この清澄白河フジマル醸造所の立ち上げではワインリストも作ることができ、スタッフの雇用やトレーニングも一緒に参加することができました。ワイナリーができると毎年夏から秋にかけて届く葡萄でワインの仕込みもできます。今までわかった風になっていたワインのことを少しだけ身をもって勉強することができました。

次の働き方

僕が生まれ育った広島は水産や農業の品質が高く、素晴らしい食材の宝庫です。日本酒処としても全国的に有名ですね。広島を出てはじめて、自分の生まれ育った場所のすばらしさを感じるようになりました。仕事にも少し余裕が出て来て、インターネット環境があれば現在の仕事も続けられるようになって来ました。フジマルの社長にも相談したところ素晴らしい提案いただき、広島に移住して仕事を続けながら起業して自分自身の事業を広島でできるようになりました。
これからはワインショップフジマルの仕事を続けながら、広島で自分自身の会社を始めます。
それは、これからのお話で。