2019年がおわり、20XX年のむこうからふりかえる話
この文章は「山本高之とアーツ前橋のBEYOND20XX 未来を考えるための教室」を見た人のレポートです。
「山本高之とアーツ前橋のBEYOND20XX 未来を考えるための教室」とは2019年7月19日から9月16日までアーツ前橋で開催されていた展覧会である。
私はこの展覧会で新作の制作補助をしていた。私はこの展覧会の会期前20日間ほどしか関わっていない。
山本高之さんはインタビューの中で「この展覧会は一つの『のぞき穴』に過ぎない。これから提示する一つの穴を通して多様な解釈の出発点になればよい。」というような話しをしていた。この話しに則り、今回の文章は制作補助であった私の視点をのぞき穴として、見てきたことや考えたことを振り返ってみようと思う。
1.プロローグのようなもの
2.アーツ前橋で行われたラーニング展
3.リズムマシーンをちょっと触(さわ)れる人
4.創造性(クリエイティビティ)への問い
5.ラーニングとは
6.この展覧会を多面的に見たい人のためのリンク紹介
1.プロローグのようなもの
東京駅近くのマクドナルドにいる。今日は雨のせいか、外はぐっと冷えこむ。私は遅くに出発する予定の夜行バスを待っている。持て余した時間が5時間ほどある。本当は夜まで営業している美術館に行くはずだった。生憎、今日は夕方に閉館する日だったらしい。そこでバスまでの待ち時間を使って、文章を書くことに向き合ってみようと思う。年末には書き上げるつもりだったが、だらだらしているうちに2020年になっていた。
展覧会名にある20XX年のX「エックス」は英字表記のX「テン」にも見える。X「テン」が二つで2020年とも読める。我々は既に山本高之さんの提示した20XX年の向こう側にいるのだろうか。越える前にまとめておこうと思ったのに。
ともかく時間は戻せないので、このBEYOND側から当時のことを言葉にしてみる。
かじりかけのチーズバーガーをまだ食べてますよのサインとして脇に置く。マクドナルドに滞在する理由作りだ。
ちなみにこの展覧会はすでに終了している。展示を見る機会を逃してしまった人には、想像で大部分を補っていただくことになる。どんな展覧会であったのか。ここで書かれた文章をもとに想像することは、事実なのかフィクションなのか。展示を見た人にとっても展示は過去のものだ。その時に見て感じた個々の鑑賞体験を振り返りつつ、読んでいただければ幸いだ。
2.アーツ前橋で行われたラーニング展
繰り返すが「山本高之とアーツ前橋のBEYOND20XX 未来を考えるための教室」とは2019年7月19日から9月16日までアーツ前橋で開催されていた展覧会である。
美術館では、アートの教育普及のことを「ラーニング」と呼ぶようになった。
山本高之さん(以下山本さんと表記)は教育をメインテーマとした作品を多く発表しているアーティストだ。そのほかにもイギリスにあるテート美術館など、各国にてラーニングの調査を行ったり、小学校の教員経験もある。いわばいろんな視点から「教育」を考え続けてきた人である。
どんな展覧会であったのか、アーツ前橋のHPから引用する。
“アーツ前橋は「創造的であること」「みんなで共有すること」「対話的であること」の3つの活動をコンセプトに、コレクションや展覧会、地域アートプロジェクト、学校や福祉施設との協働など、多岐にわたる取組みを行なってきました。本展では、アーティストの山本高之とアーツ前橋の学芸員が〈美術〉を通じた学びとは何かを共に議論し、これからの〈美術/美術館〉の役割について考えます。「教育にはその時代、その地域の大人たちが描く未来像が反映されている」と山本は言います。本展で発表される新作《ビヨンド2020道徳と芸術》では、市民と関わりながら作品制作を行い、SF映画のような世界観の中で、教育と未来の関係性が示されていきます。私たちの未来は、多様な「学び」を通して過去と現在が結びつけられ形成されます。美術を通じた相互的な「学び」の先にはどんな世界が待っているのでしょうか。”
写真《ベルトコンベアー》
展示内容をさらに補足すると、全三章で構成されている。
第一章では”Beautiful harmony”と題し、アーツ前橋の学芸員一人一人の展示が並ぶ。過去から現在までに行った館の取り組みや仕組みの中での疑問を出発点に再考するというもの。第二章では、学芸員が海へ行きサーフィンをする映像が流れる。第三章では、山本さんが前橋の市民(子供から大人まで)と共同制作した作品がSF映画のセットを彷彿とさせるようなかたちで展示されている。
写真《ヘビとムカデの戦い》
山本さんの取り組みは館オリジナルの画期的なラーニングプログラムの開発ではない。過去にアーツ前橋が行ってきた企画・取り組みの中に未来を考えるためのヒントがあるのではないか、と山本さんは言う。アーツ前橋が開館して6年、美術館の内外で行なった様々な取り組みを知るのは、他でもない学芸員たちだ。画期的なラーニングプログラムを外注するのではなく、自分たちの過去の取り組みから感じた疑問や問いは鑑賞者に見えてくるのか、こないのか。そして毎週のように行う作家企画のワークショップに参加する中でどんな学び合い(ラーニング)が起きるのかを体感し、考えてみよう。というものに見えた。展覧会の黒子的な存在の学芸員に焦点を当てているように感じた。
写真《市議会議員のポートレート》
3.リズムマシーンをちょっと触(さわ)れる人
私が制作補助として入ったのは6月の半ばだった。まず率直な感想として「展示、間に合うのか?」と思った。相当タイトなスケジュールでやらないと終わらないのでは、と覚悟しつつ制作スタジオへ向かった。
初めて山本さんに会った時「今アイデアスケッチ描いてるから。そこ座ってリズムで遊んでて。」と言われた。拍子抜けをした。目の前には電子音楽の機材がある。展示の進行状況をみるに、それどころではない(と思う)。山本さんは焦らないのか?と思いながらシンセサイザーやサンプラーという名前のリズムマシーンの前に座らせられた。「ここをひねると音が変わるから。」と簡単な説明を受ける。「ピカルミン」という名のピカチュウにスイッチや絞りが装着されたメカニックな装置などを触る。とりあえず適当に片っ端からスイッチを押し、なんとなくリズムや音階が変わるのを感じる。どのボタンを押すと音の何に影響があるのか、法則性を探りさぐり知る。
写真(画質が荒くて申し訳ないが上のピカチュウが「ピカルミン」という装置)
山本さんはアイデアスケッチを描きながら、たまに「いいね」と合いの手を入れる。私は「いや、呑気か!」と心の中で思いながらスイッチを押したり、ツマミをひねる。
制作補助をしに来たはずの私は「リズムマシーンをちょっと触(さわ)れる人」になっていた。
制作に意気込んでいた私は、例えるなら自転車を思い切り漕いでいるうちに、ペダルが軽くなりすぎてから回りする現象に似た感覚がした。後に確信したが、山本さんは本筋からちょっと軌道をずらすような仕掛けをすることに長けている。制作補助という決められた筋書きに、リズムマシーンをちょっと触れる人という人生の選択肢が加わった。これは展覧会に何も影響しなかった。今後の私の人生に影響するかも分からない。ただ、山本さんの過去作にある《スプーン曲げを教える》(子供たちにスプーン曲げをレクチャーするが、その過程は映さない。子供たちがスプーンを曲げる瞬間のみが映像化されているビデオ作品)に出てくる子供たちの、「今後スプーンを曲げられる人生」を追体験した気がした。
山本さんのアイデアスケッチは「こんな物を作りたい」という視覚情報を共有するためのものだった。このスケッチから作り方や素材を連想するのは難しい。山本さんの場合、「作りたいもの」は対話によって細部や具体的なイメージが固まっていくようである。明確な指定がない分、私からの意見も積極的に拾って採用してくれるような「あそび」が残されていた。この対話を続けたおかげで山本さんの「作りたいもの」は、共有のイメージとして私の脳内にも描けるようになった。終盤は山本さんが不在であっても共有のイメージを引き出せばこんな感じかな、という予測をたてながら制作をすることができた。もしかして、SFの世界でお馴染みのテレパシーは、対話とイメージ作りを繰り返すことで使えるようになるのかもしれない。
写真(山本さんのアイデアスケッチ)
4.創造性(クリエイティビティ)への問い
山本さんは会期前、声には出さずに態度で問い続けていたことがある。「あなたに創造性はあるか」という問いだ。これは「創造性」という言葉を他者に向けて消費し続けてきた、美術関係者に対しての問いだと私は思っている。創造性は果たしてアーティストにだけ求められるものなのか。創造性の大切さや、創造の面白さを声高に語ってきた我々こそ「創造性」を形骸化していませんか?ということを常に問うているように見えた。
というのも、山本さんは前述の通り対話によってアイディアや方向性を固めていく。山本さんのやりたいことを聞くだけの聞き役には回れないし、山本さんは聞き役のみにさせてくれない。山本さんは「私/私たち」の意見を求めてくる。そこで口をつぐんだり、たじろいだりする自分が現れる。もっともらしい言葉や事柄を当てはめていただけで、自分の頭を使って「創造性」を発揮していたわけではないことに直面させられる。アートの教育普及を語ることが居心地悪くなってくる。山本さんはその場から逃さない。意識的/無意識的に言葉で誤魔化していた身ぐるみを剥がされてしまう。
ここで注意したいのは「山本さんが怖い」という思考に陥りそうになる。しかし、この恐怖の正体は「自分が『創造性』を形骸化させていた事実を認めること」なのだ。自分に向き合う恐怖をその仕掛け人である山本さんの存在にすり替えてしまいそうになる。
写真(制作途中の《おはしも》)
では山本さん自身はどうなのよ、と目をやると《チルドレンズプライド》という作品(子供たちが各々の希望・要望を書いたプラカードを持って行進するというビデオ作品)以外全て新作で挑んでいる。「創造性」を発揮せざるを得ない土俵にすでに立っている。私は山本さんが、制作段階で何回か躓いているのを見た。新作の一つである《洗脳ヘルメット》の色が納得いくものになるまで3回塗り直している。いかにも洗脳されそうなSF感が出るまでに「禿頭っぽいヘルメット」、「安っぽい戦隊モノのヘルメット」の段階を踏んでいる。材料も何回か選び直した。
山本さんは私たちより先に「創造性」の土俵で躓いて、転んでを繰り返しているのだ。そして毎日「現場」にいる。いつでも対話ができるように。私たちは己の「創造性」に向き合わざるを得ない。ぐうの音も出ないのだ。
写真《洗脳ヘルメット》
5.ラーニングとは
この展覧会に関わる時に私は、いつの間に教育普及が「エデュケーション」から「ラーニング」になったのだろうと、思っていた。というのも、私が大学に在学していた2017年の時にはまだ「エデュケーション」という言葉を耳にしていた。「エデュケーション」とは一方的に教える者と教えられる者という構図になるらしい。そこで「ラーニング」という一方的ではなく双方からの学び合いへと変化したらしいのだ。「ラーニング」について何となく知った後、自らの体験を元に自分の言葉で解釈してみようと思った。この夏の「ラーニング」を通しての見解が以下の通りだ。
ラーニングとはブレイブボードに乗れるようになることである。
補足する。山本さんが作品制作のためにブレイブボードを買った(ブレイブボードとはキックボードの亜種)。山本さんは自分でブレイブボードを使った作品のアイディアを出したにもかかわらず、買うのをかなり渋っていた。そして買ってはみたものの乗れない。
私は山本さんの横で制作しながら、山本さんがブレイブボードに乗れない様子をずっと見ていた。山本さんは私にも「乗ってみろ」と言ってきた。私はキックボードやローラースケートのような車輪付き乗り物が苦手だ。乗れた試しがない。無理だと思いつつ試した。何回も転んだ。2人とも乗れず、転び、アザをたくさん作った。これの何が楽しいのかよくわからない、という空気感が2人の間に漂ってきた。
しばらくして山本さんが乗るコツを掴んだ。自身の趣味であるサーフィンにおける身体の動かし方をブレイブボードに応用したのだ。
私は「え!どういうことですか!?コツは!?」と、羨ましくなって食いつく。山本さんは先程掴んだばかりのコツを私に教える。早速試すも、言われるのとやってみるのとでは、やはりうまくいかない。
そこに学芸員の若山さんが来た。若山さんもブレイブボード初体験でありながら、何回か試したのち、スッと乗れる。乗れない時間が長いだけあって悔しい私。山本さんと若山さんがブレイブボードの楽しさを見出していく中で私は乗れない。
そこで2人は私が乗れるようになるために「そこで軸がぶれてる、手と腰は連動させて、重心を低く!」などのアドバイスをする。何回か試したあとにようやく乗れる。大の大人である3人がそりゃあもう、キャッキャと喜ぶ。こんなに喜んだのはいつぶりだろうか。私は、初めて補助輪なしで自転車に乗れた時のことを思い出していた。
そしてブレイブボードに乗る喜びを知った私たちは、まだ乗っていない他の人も呼んできて乗るように勧める。初めは誰しも乗ることに抵抗を示す。転びかけてヒヤっとする。転ぶ。何回か繰り返し、また一人が乗れるようになる。覚えたての感覚を忘れぬうちに新たな人にコツを教え、そして自分も技術向上のために乗る。このようなサイクルを繰り返し、結構多くの人がこの未体験のブレイブボードに乗れるようになったのだ。(そして山本さんはブレイブボードを気に入り、作品制作用以外に個人用のものを早速購入した。笑)
誰も答えを持っていない未体験の状況で試す。そして何回も人前でそれぞれが転ぶ。痛い。恥ずかしさもある。その中で誰かがコツを掴む。覚えたてのコツを共有しあって、できるようになり、また次の未体験の人に託す。これこそラーニングなのではないか?
特定の誰かが答えをもっていて、自分の想定した手のひらの上で人々がワーギャーするのを眺める。「そうそうこれが、学びなんですよ」とか知ったかぶりをして、あたかも「経験を提供した側」としてふんぞり返っている。それは果たして「学び合い(ラーニング)」なのだろうか。違う。
ラーニングにおいては全員が「未知の土俵」に立つプレイヤーなのではないか。
とはいえ、これは現段階での意見だ。ここから何を体験して考え方が更新されていくのかを楽しみたい。
自分の過去に行った体験から未来へのヒントを見つける。生身の身体で受け止めることを恐れてはいけない。
写真《ムカデサーフ》
かじりかけのチーズバーガーを口にする、乾いたバンズが喉にまとわりついた。さて、バス停に向かうとする。
6.この展覧会を多面的に見たい人のためのリンク紹介
「山本高之とアーツ前橋のBEYOND20XX 未来を考えるための教室」がどんな展覧会であったのかを詳しく知るための資料として、他の人の文章やインタビューのリンクを貼っておきます。