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さようなら、ママシェリル

オロディ先生のお葬式が無事終わった直後、ママシェリルの訃報が舞い込んだ。ママシェリルのことは日本の講演会でもよく話していたので、覚えている方も多いのではないだろうか。
私とオギラ先生が出会って、リリアンに相談して親子共々マゴソで助けてもらったのはもう15年くらい前だと思う。ママシェリルは、キベラスラムの道端で野菜を売りながら生計を立てているシングルマザーだった。3歳くらいの小さな娘がいて、極貧だけれども懸命に生きていた。しかしスラムというのは無情にも、ときどきブルドーザーやシャベルカーなどの重機がやってきて粗末な家々を無残にも強制撤去していってしまう。ママシェリルの家も、新しい道路の建設のために強制撤去されてホームレスになっていた。ママシェリルは、小さな娘を抱えて、さらにお腹も大きくて、家を失って、それでも路上で野菜を売って生きていた。夜になると眠る場所には、雨を避けるための囲いもなかった。本当に、何もなかった。

私とオギラ先生がなぜママシェリルに出会ったかというと、そうやって道端で野菜を売っていたある日、彼女は陣痛が来て、まわりの野菜売りの女性たちに助けられて私の友人のケニア人助産師のおばあちゃんのところへ担ぎ込まれたのだった。私たちはそんな時にたまたま通りがかったのだけど、行きがかり上、出産の立ち合いをすることになった。

出産は、誰もが苦しい。命がけで赤ちゃんを産む。ママシェリルもそうだった。赤ちゃんが生まれてきたとき、産声を上げなかった。それを助産師のフリーダさんはいろいろやって蘇生して、赤ちゃんは弱々しい声で、ふにゃ~と泣いた。とてもかわいくて、ママシェリルも嬉しそうだった。私はそのまま買い物に行き、頭のてっぺんから足の先まで新品の赤ちゃん服を買い、届けた。ピカピカの産着のセットを着せて、とても嬉しく誇らしげだった。

ところが、赤ちゃんは長くは生きていなかった。あっという間に、死んでしまった。赤ちゃんにとって厳しすぎる環境だった。ママシェリルは亡くなった赤ちゃんをずっと抱いて泣いていた。その赤ちゃんも一緒に、ママシェリルと娘はマゴソスクールにやってきた。オギラ先生が自分の子どもとしてお葬式をしてくれた。

それからずっと、ママシェリルはリリアンに助けられて、マゴソスクールで水汲みや掃除など、様々なことをして働いてくれた。本当に長い間。
はじめて来たとき、まるで小さなお猿さんのように元気であちこち飛び回っていた娘のシェリルちゃんは、マゴソスクールで幼稚園の年少さんに入って、ずっとマゴソスクールで生きてきた。今年は彼女は高校三年生になった。

ママシェリルは最近、これまで以上に具合が悪かったので心配していたけれども、ついに天国に旅立ってしまった。マゴソの給食スタッフの女性たちが病院に連れていき、娘のシェリルちゃんに看取られた。

キベラスラムの底辺層の人たちの生活は本当に厳しい。
日々の過酷な生活の状況を、何とか耐えて生き抜いていくけど、30代も終わりごろになると疲弊しきってそれが健康上のトラブルとして様々に影響してくる。子どもの頃から家庭環境が厳しく、それまでの生活が厳しかった人ほど、身体の状況は悪く若いうちからボロボロになっていく。

マゴソスクールにいれば給食があり、せめてもの日々の助けにはなるけれど、自分の生活は自分たちで生きていかねばならないことには変わりはない。それでもマゴソスクールで楽しいことがあったり、時おり生活の助けになるような支援をもらえたりなど、暮らしの上での励みや救いになっていることは間違いないが、基本的な人生の厳しさというのは変わらない。

オロディ先生も、ママシェリルも、家庭の生活状況は本当に厳しいものだった。親兄弟が死んだり、病気だったり、そこには本当に絶望的にお金がなかったりなど、そういう困難な生活の中でも家族を助け、少しでも収入を得て、最後の最後まで生きていくための努力をしていた。弱音をはいたり愚痴を言ったりということはなかった。子育てを放棄するということもなかった。その生きる勇気と努力を称えたい。

オロディ先生のお葬式はマゴソスクールの先生やスタッフたちがお金を出し合ったのと、日本でもごく身近な親しい人たちがお香典を託してくれて何とか11月末に終えたが、お金は必要な経費には足りず、リリアンが借金をして葬式を終えてくれていた。

ママシェリルは完全に身寄りがなく、いつもリリアンの名前を病院などの保証人に記載していた。年老いた父親が田舎にいることがわかったが、その父親も病気だ。お弔いをどのようにやるかはこれから話し合われる。

お葬式続きのマゴソだったけど、それでも子どもたちの毎日は続いていく。今はケニアの学校は休みに入って、みんなささやかながらも田舎に帰って親戚や家族や近所の人たちと共にクリスマスを祝いたいところだが、お金がすっからかんで田舎に帰る交通費がないという人たちが多い。

せめて一年に一度だけでも、クリスマスのときくらいはささやかながらのお祝いのごちそうを作って、みんなで喜び合えたらいいなと思う。学校が休みの間にも、マゴソスクールでは給食は続けていて、近所の生活困窮者や高齢者、家に食べ物がない人たちなども学校にやってくる。
「マゴソスクールを支える会」では、単発の寄付や何に使うという名目を特に特定していない募金も受け付けていて、このような必要なときに手助けをしてくれている。キベラスラムの近所の人々や子どもたちに、ささやかなクリスマスの食料を、そして、オロディ先生のお弔いの費用のための借金や、ママシェリルを天国に送り出すための費用など、小さな募金を、もしもお心を寄せていただけるようだと大変ありがたい。

世界中どこでも様々な困難がある人の世だけれど、助け合い、励まし合いながら、毎日を精一杯生きることが出来ればと願う。

長年マゴソスクールで生きてきた仲間たちが、一人また一人とこの世を去るのはとても寂しい。だけど、嘆き悲しんだり、めそめそと泣くことはやめよう。精一杯生きた命、最後まで放棄せずに闘い続けた命を称えよう。祝福と尊敬を持って、その命を称賛しよう。

ママシェリルはキベラスラムで、少しでも家賃を安くあげようと、とても治安の悪いエリアの路地裏奥深くに部屋を借りて住んでいた。彼女の家を訪ねたとき、真っ暗な路地を奥まで歩き、さらに真っ暗な廊下の奥の小さな部屋で、ママシェリルは嬉しそうに私を迎え入れてくれた。ベッドがひとつ入ったら身動きもできないほどの狭い部屋だった。マゴソスクールで働き、さらに夜は小魚を路上で売っていた。娘のシェリルが奨学金を受けて高校に行っていることが誇りだった。

私は、ママシェリルを思い出すときに、しんどい苦労の思い出ではなく、楽しかった日々で思い出したいと思う。マゴソスクールでファッションショーがあるときに、リリアンが作ってくれた美しいドレスで笑っていたママシェリル。楽しい日々や、輝く時間が、マゴソスクールにはあったよね。忘れない。

よく生きた命、本当におつかれさまでした。どうかゆっくりと休んでください。オロディ先生が先に行っているから、きっと道案内をしてくれるね。もう何の苦しみもない、悲しみもない、美しい花が咲き乱れる神様のお庭で、懐かしい人々と再会して、永遠に永遠に仲良く暮らそう。

さようなら、ママシェリル。また会う日まで。


★★マゴソスクールのささやかなクリスマス給食のために、そして、ママシェリルのお弔いのために、お助けいただけると大変ありがたいです。
★「マゴソスクールを支える会」寄付のあて先→
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