苦手な"表現者"について

同世代のコンテンポラリーダンサーの多くが「自由な表現」というお題目を隠れ蓑にして、ダンスを自己効力感や承認欲求を満たすための道具にしていることが嫌いだ。

そういう人はだいたいダンス史の勉強をしていない。文化をファッションや遊び道具の延長として捉えてしまっている。
勉強していないと、「芸能は観ている人と場を共有するために存在するもの」だということをなかなか理解できない。

自分が時間を割いて練習してる芸能を自己憐憫のために使えば使うほど、観客は関心を失ってしまう。このことは、勉強するか他人に運良く教えてもらうかしないと気付けない。興味を持ってくれるのは仲のいい友達だけ。それに気付けない人たちが、大学や専門時代のダンスノリを引き摺ったまま社会に放り出されて、自分を理解してくれない社会のことを嘆くようになる。

また、そういう傷の舐め合いのノリを引き摺るダンサーは、練習すると言っても単に教えを受けてるだけである場合が多い。自主的に表現を模索してる人であれば、ダンスを自己肯定の道具にすることは稀だ。

表現とは複雑なもので、他人から教えてもらえる部分と自分で作り出さなければならない部分がある。後者の存在を知っているかどうかも、表現を「自他どちらのために使いたいのか」という意思を切りわける分水嶺となる。

踊りを自己肯定の道具にする人たちは、「他人のために踊りたい」と口にしていても、無意識下ではほとんど自分を充足させることが目的になっている。そのような意識を持ち続けている限り、面識のない人は誰も表現に関心を示さない。だから広がりがなく先細る。

そして、たちの悪いことに、仲のいい人はだいたい褒めてくれるため、届くべき人に届いていないということに当人たちはいつまでも気付けない。

まあ、とっても単純な話で、覚悟があるかどうかの問題なんだと思う。

特定の誰かに向けた話ではない(こんだけ書いといて苦しすぎる言い訳だけど)し、こういう状況は現代の一億総発信時代が作ったものであるから人間に対して責任を帰そうとは思わない。

ただ、こういう構造や事実に気付いて野心的にコンテンポラリーダンスやる人がもっと増えればいいのにな、と思うだけ。

私の価値観にマッチョイズムが多分に内包されていることは自覚している。しかし、そのような厳しさと緊張感を自分の中に課していないと、目標とする表現者には到底なり得ないだろうと思うのだ。

レジャーとしてダンスや表現をやっているのであれば何も言うことはない。

ただ、ダンサーや表現者を目指しているくせに緊迫感なくのうのうと過ごしている同業者に反吐が出るというだけの話だ。

おしまい。

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