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考え続け、書き続けるということについて│ひとりアドベントカレンダー#25

小学5年生の頃の担任の先生が、毎日出していた宿題は「日記」ではなかった。先生はそのノートのことを「考えノート」と呼んだ。

「その日にあったことをただ書くのではなく、自分の『考えたこと』を書きなさい」

その日学校であったことでも、読んだ本でも、新聞記事の切り抜きでもいい。「あったこと」「読んだこと」だけでなく、自分が「考えたこと」を書く、というのが「考えノート」の条件だった。

私にはこの「考えノート」が随分はまったらしい。ただの日記や、当を得ない読書感想文のような、もっともらしい(そして、小学生らしい倫理的な)"感想"を求められる宿題をずっと窮屈に思っていたので、その反動だったんじゃないかと思う。

毎日、最低2ページはぎっしり書いた。地元紙の記事を切り抜き、街で見かけた看板の文句を引き合いに出し、80年代歌謡曲の歌詞を分析し、時には哲学的な問いに直接向かっていくこともあった。毎日違うテーマで考えて、書くことが楽しくて仕方なかった。

時には、これまで学校や家庭で抱えたことのあるもやもやを「なんで?」と考えていた。そのたびに頭がしびれるような熱いような感覚に襲われて苦しんだが、その時ばかりは「みんなと好きなものの話が合わない……」という悩みから解放されていた。

つまるところ、この"ひとりアドベントカレンダー"でやっていることは、「考えノート」でやっていたことの、完全に延長線上にある

ただ、小学生のときと今では状況が違う。

小学生の頃は、自分の生活を自分でことさらコントロールしなくても、常に両親や学校がそれを肩代わりしてくれていたし、「宿題だから」という意識もあるにはあったので、必ず毎日「考えノート」に取り組む時間をとることができていた。

今となっては、12月1日から25日まで毎日記事を書いてみただけでも、へとへとである。

実家暮らしの頃と違って、衣食住の管理を自分でひととおりやらねばならない。責任とともに任されている仕事もある。それらをうまくマネージしながら、一日あたり60~90分の時間を捻出する。

それだけではない。11月30日の時点で出していたネタ候補を、毎日少しずつ見直し、順番を調整する。25日間を5日ごとに分けて、5通りの異なるサムネイル画像のデザインを作る。通勤の行き帰りの電車の中で、その晩書く予定の記事のストラクチャを練る。そして、翌日の仕事に響かないよう、遅い時間になりすぎないように書き始め、書き終えてnoteに公開し、TwitterとFacebookに投稿し、寝る。

ここまでひっくるめて、この「ひとりアドベントカレンダー」だったのだ。正直、想像以上に大ごとだった

仕事や、家での生活以外に何かを続けるということは、その「何か」だけを続けるのでなく、「何か」を続けるためのリソースを捻出するために、いろいろな周辺のことを、たえずチューニングし続けることでもある。ただ生き延びるだけでも精一杯なのに、それに加えて何か続けている人たち、揃いも揃ってみんなすごい

そのぶん、ただ「生き延びる」から、「いい感じに生きてる」へのステップアップ感はなかなかのものだ。自分が直接見聞きしたり足を運んだりできる範囲を超えて、思考なら縦横に広げることができる。「日本より頭の中の方が広いでせう」と漱石も書いた。

単に日々のルーティーンを回すだけでは世界に対して受動的になっていくところを、「なんで?」「そういえばあれって……」とまずは自分の頭の中から声を発することで、世界に興味を持ち、楽しみ、時には怒り、自分のものの見方を自分でアップデートすることすらできるようになる。そういう営為を続けていく日々はきっと悪くない。

でも毎日書くのはしばらくいいや。またやるとしても25日間よりは短い期間で。

ということで、ひとりアドベントカレンダー、完結です。

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