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解答のない難題様へ

ここ数年夢中になって哲学を学んでいたのは、伸びしろというものがほぼないおばさんにでも、哲学というものを教えても構わないと思った酔狂な若者の存在があったからだ。どこかで蝶が羽ばたいただけで遠い場所で竜巻が起こるほど緻密な力学で構築された世界の中で、そんな酔狂な若者から哲学を教わる場を得たことは、竜巻以上の奇跡と呼んで差し支えないと思う。
そしてそのとても大事にしていた時間はなくなってしまった。
きっかけは若者が失恋をしたからで、それを機に私は彼の言葉がわからなくなってしまった。最初は失恋で傷ついているからだろうと考えていた。どんどん死が色濃くなる彼の文章の中で、意図がわからない文が増えていく。
そんななか、決定的に彼を傷つけることを私は言ってしまったのだった。
でも、残念なことに、私を強く非難する彼の言葉は、明晰な日本語であるにも関わらず私にはさっぱりわからなかった。
ただ、私の無神経さによってこの人間関係は壊れてしまったのだなとは理解できた。

私はあまり失った人間関係について引きずるタイプの人間ではないけれど、ふと思い立って原典にあたろうと思った。以前若者が書いた小説の中で、主人公を知ろうとした女の子が彼の読んだ本を読み尽くしていくシーンがあったのも思い出した。しかし、哲学を学ぶ人間の読書量は膨大なので、私のような瞬時にNetflixに取り込まれる人間には一生かけても若者の読んだ本を読み尽くすことはできない。なので、最近とくに引用が多かったものを読むことにした。それが二階堂奥歯という女性編集者の『八本脚の蝶』というブログだった。2003年に26歳の誕生日を迎える前に身を投げて人生を閉じた方が2年書き綴ったブログは本にもなっているし、ブログもそのまま存在しているのでいつでも読める。ブログは新しい記事から掲載されているので、当然ブログの冒頭は死を準備した内容で、残される人が後悔したり悲しんだりしないための言葉が綴られているため、以前酔狂な若者から紹介されたときには気が滅入って読むのを早々にやめたのだった。私は死の香りのする文章を積極的には摂取したいと思わないタイプだし。
二階堂奥歯さんは早稲田で哲学を学んだのち、東京の出版社で編集の仕事をしていた女性だった。おねえちゃんは本を読みすぎてばかになっちゃった、と弟妹に言わしめるほどの本の虫なのも、酔狂な若者と同じだった。奥歯さんは非常に明晰な頭脳の持ち主であり、自分が生きていくための支えを持たなかった。それは家族に愛されていなかったとか、不幸な身の上だとかいう類のものではなく、おそらく生きることへの執着がもともと希薄なように見えた。自分から死ぬことがもっと簡単であれば、25歳より前に亡くなっていたのだろうと思えた。きっと、そんなところも若者と似て見えた。

若者に別れを告げたあとの元恋人の振る舞いに、私は非常に頭にきていた。(諸事情あり、その動向をずっと見させられていた)
いくら若くて未熟でも、そうした行動が相手の傷を深くすることを理解できないほどには子供でもないだろうと思って、軽蔑をしていたし、失意の若者にも軽蔑して怒って立ち直ることを勧めていた。しかし、彼は元恋人を憎むことをあっさりと拒否した。私はその理由は彼の持つ彼女への未練だと捉えていた。でも、多分そこが決定的に間違っていたのだろうと思う。

2002年12月20日(金)その2
昨日雪雪さんと会った。

私には「ご主人様」が必要なんです。
「お前は私のために生き、私のために死ね」=「お前の存在の根拠は私だ」=「お前は存在していていい、むしろ、存在しなくてはならない。私がそれを望むがゆえに。そして、お前の死もまた、根拠がある」と言ってくれる人が。

そういう人のために、昔から宗教というシステムがあるんだよ。

そうですね、でも宗教はもっともらしすぎます。そこに安住したら高橋たか子になってしまう。尋めゆく者でいられなくなってしまう。
多くの人には「ご主人様」がいないみたいですけど、みんなどうしているんですか?

みんな、自分が「ご主人様」なんだよ。

そ、そんな便利な仕組みになっていたのか!

正確に言うと、自分が「奴隷」なんだ。「ご主人様」は超越論的に存在していて、本人も気づいていない。気づいていない「主人」の目で見て、この「奴隷」なら満足だと思っているんだ。みんな、最初から、気づかれないほど当然に、存在の許可を自分の中の気づかれない「神」によって自分=「奴隷」に与えているんだよ。

私の「主人」になりたい人はたくさんいますけど、みんな私を失いたくないんです。私は、私がいなくちゃ駄目な人を「主人」、「神」とは思えません。

それ、背理だって気がついてるでしょ。

はい。

君が言う意味での「奴隷」がいなくても平気な人は、君が言う意味での「奴隷」は過剰で、不必要だ。なぜなら「主人―奴隷」システムはその人の中で十全に働いているからね。そして君のいう意味での「奴隷」を求めている人は、つまり、君と同じように「主人」を求めているんだ。

わかっているんです。構造は、わかっているんです。でも……。

君が俺に出会ったころ、将来の姿は見えたから、心の仕組みをちょっとずついじって、たくさん伏線を張っておいたんだけどね。

……うん。

八本脚の蝶

若者にとって急に去ってしまった元恋人は多分、彼の「生きる」を支える存在であったのだろうと思う。だから彼は自分の「生きる」を支えてくれた元恋人に感謝することはあっても、恨んだり軽蔑することを拒否したのだろうと思う。神などという完全な存在では信じきれなかったから、不完全な彼女を信じることができたのかもしれない。彼女の不完全さに傷つきはしたものの、不完全さは彼にとっては憎むべき対象ではなかったのかもしれない。
生きることを支えた「主人」がいなくなってただ途方にくれていたのかもしれない。信仰していたものを「怒ったほうがいい」などと言った私は彼にとっては鬼に違いなかったと思う。
私は外的な暴力によって、生きていくことが困難だった時期が長くある。もちろん死がとても魅惑的な存在だと感じたときもあるが、根本的には生きたいという欲求が備わっているタイプだ。奥歯さんや若者は違う、生きるための自家発電を自分でできないのだ。この場合、同じ死にたがりでも私は「持つ者」であり、彼らは「持たない者」で、全く異なる存在なのだ。

奥歯さんは、家族や恋人に愛されて生きていたが、彼女をこの世にとどめおくほどの力を持っていなかった。若者はどうだろう?多分、奥歯さんほどには愛が力を持たないわけではないようにも思える。願わくば、潜在的崇拝の対象がいるのなら可及的速やかに若者の前に現れてほしいと思うけど、以下の引用であっさり却下されるのだろう。

2003年4月22日(火)その4-1
 恩寵は充たすものである。だが、恩寵をむかえ入れる真空のあるところにしか、はいって行けない。そして、その真空をつくるのも、恩寵である。

 真理を愛することは、真空を持ち堪えること、その結果として死を受け入れることを意味する。真理は、死の側にある。

 恩寵でないものはすべて捨て去ること。しかも、恩寵を望まないこと。

 真空を充たしたり、苦悩をやわらげたりするような信仰は、しりぞけるべきこと。

「みこころの行われますように」ととなえるたびに、起こりうる可能性のある不幸を何もかも全部、思いうかべていなければならない。

 神が、守銭奴における財宝のように、意味に満ちたものとなってしまったら、神は存在しないのだと強く自分に何度も言い聞かせること。たとえ神が存在しなくても、自分は神を愛しているのだと切に感じられること。

 恩寵がはいってこられそうな全部の割れ目をふさごうと、想像力はたえず働きかけている。

 清められるための一つの方法。神に祈ること。それも人に知られぬようにひそかに祈るというだけでなく、神は存在しないのだと考えて祈ること。
(シモーヌ・ヴェイユ『重力と恩寵』田辺保 ちくま学芸文庫
1995.12)

八本脚の蝶

と、色々と考えたところで、もはや答え合わせもできない難題となってしまった。人は急に死んだり、去ったりする。いつもいつも自分の納得する答えが得られるわけでもないし、去られてしまっては答えは永遠にわからないままにもなる。もうそんな覚悟はできているけれども。
そう、そして私は若者に人は失恋で死んだりしないと答えた。
愛し合うふたりが死を選ぶことはあっても、振られて死ぬのは相手への当てつけだと思ったからだ。今もそう思うし、そうじゃないものは厳密には恋愛とは呼ばないはず。でも、これが「生きる」を支えていた恋ならば、私の言葉はなんの意味も持たない。私は、自分が理解できる恋愛の範囲にものごとを押し込めすぎて、若者をひどく傷つけてしまったのだなあ。そしてそれはきっと長く続いてしまうから、私が若者から距離をおくことは、彼を守る意味合いにおいて、きっとよい決断なのかもしれない。それだけが救いだ。

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