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今さら聞けないイエス・キリストの歴史

今回、ペルーを旅してきた中で、ペルーはキリスト教徒が多数を占めることを学んだ。
ということで、イエス・キリストについて一度おさらいをしたいと思いこの記事を書いていきたい。
ちなみに私は、イエス・キリストを架空の人物だとごく最近まで思っていた。
もしかしたら私と同じような人がいるかもしれない(いるか)と思い、ざっくりとイエス・キリストについて説明していきたい。

イエス・キリストとは?

まず冒頭でお話しした通り、イエス・キリストは今から2000年以上前の紀元前6年頃誕生し、33年間実際に存在しキリスト教を広めた人物である。
つまりキリスト教の始祖であり、信仰の対象となる存在である。
キリスト教はイスラム教やユダヤ教と同じく唯一絶対の神を信じる一神教である。

イエス・キリストの名前の由来


「イエス」は「救い」の意味。
当時ユダヤの人はほとんど苗字を持っておらず、「マグダラのマリア」や「大工のヨセフ」などのように職業や親の名前、出身地などを名字のように使って区別していた。
イエスも最初はナザレに住んでいたので「ナザレのイエス」と呼ばれていた。
後にイエスはキリストという称号をつけて呼ばれるようになる。
「キリスト」はギリシア語で「油注がれた者(救世主)」という意味。

イエス・キリストの教え

キリスト教は、イエス・キリストの教えを信じる宗教である。
そのなかでも最も大切な教えとして「アガペー(真実の愛)」が挙げられる。

心を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」、「隣人を自分のように愛しなさい」との言葉にあるように、自分の身近な人や好きな人だけではなく、自分の目の前に現れるあらゆる人を愛せよ、とイエス・キリストは説いている。

神の子イエス・キリスト

聖書には「イエスは神の子である」と書かれている。
この神の子は「父と息子」のような意味での「神の子」ではない。
この時代のヘブル文化において「神の子」とは「神と同等」「神と同じ本質を持つもの」「神そのもの」という意味で使われていた。
イエスは、旧約聖書の預言どおりに人間として地上に来られた神の子なのである。イエスは「完全な人間」であり、同時に「完全な神」の性質を持っている。

イエス・キリストの誕生

古代イスラエル王国のダビデ王の血をひくマリアと同じくダビデ家の末裔のヨセフは、パレスチナ地方(現在のイスラエル)に住んでおり婚約をする。
ある日、処女マリアは神の使いである天使ガブリエルから、神の子キリストを妊娠したという「受胎告知」を受ける。
マリアからこのことを知らされたヨセフは、結婚前に子供が生まれることは信じられないとマリアと縁を切ろうとする。
しかしヨセフの元にも天使ガブリエルが現れ、神の子に「イエス」と名付けること、神の子とマリアを守るようにと告げられる。
信仰の深い2人はこのお告げを受け入れ神に従う。
キリストの母は誰もが知る「聖母マリア」である。マリアは聖霊によってキリストをみごもったとあることからヨセフは実父ではなく「イエスの養父」と表現されている。

当時、ユダヤの国を支配していたローマ帝国のアウグストゥスは人口調査をユダヤ全土に命令し、ユダヤの全国民は祖先の生まれた土地へ行き住民登録をすることを命じた。マリアとヨセフは北ユダヤのナザレという町に住んでいたが、2人の祖先であるダビデ王は南ユダヤのベツレヘムが出身だったため、長い時間をかけてベツレヘムに行った。その時すでにマリアは臨月だったので、その旅先でイエスは誕生する。神の子であるイエスは、立派なお城で生まれたのではなく、貧しい家畜小屋で生まれた。

イエスの誕生についての預言は旧約聖書にたくさん記されているが、その中の一つに、ダビデの子孫からキリスト(救い主)が誕生するということが預言されていた。そしてその預言通りとなった。
ベツレヘムの地でイエスが誕生することも全てが神の計画であり、イエスは後にすべての人類の罪を贖って(あがなって)救うために、人となってこの地上に来たのである。

当時ユダヤ王国を統治していたヘロデ王は、このイエス誕生のニュースを東方の天文学者を通して耳にするが、新たな「王」として生まれてきたイエスに脅威を感じたヘロデ王は、イエスの殺害を謀る。しかし、マリアとヨセフは主の使いにエジプトへ逃げるように知らされていたので、ヘロデ王が死ぬまでエジプトにいた。
ヘロデ王が死ぬと、主の使いがイスラエルに帰るように知らせたので、マリアとヨセフはイエスを連れてイスラエルに向かい、ナザレという町に住み始めた。

イエス・キリストの幼少期

マリアとヨセフは敬虔なユダヤ教徒だったので、律法に従って毎年過ぎ越しの祭りのためにエルサレムに行っていた。ユダヤ人の男の子は13歳でバル・ミツバという成人式を迎える。この儀式の前に、12歳の時から何ヶ月もかけて備えをする。そのため、マリアとヨセフは12歳になったイエスを連れて毎年行われるこの過ぎ越しの祭りに行った。
過ぎ越しの祭りでは、巡礼者たちはエルサレムに行き、そこで最低2泊することが義務付けられている。彼らはその通りエルサレムを巡礼し義務を果たした後、ナザレに帰っていった。大勢のユダヤ人が帰路に着く中、当然イエスも一緒にいると思っていたマリアとヨセフは1日後にイエスがいないことに気が付く。イエスを探しながら引き返した2人は、再びエルサレムまで戻ることになった。そこでようやくイエスを見つけるが、それは驚くべき光景でイエスはエルサレムの神殿でラビ(ユダヤ教の聖職者)と語り合っていたのだ。ラビたちもまた、イエスの知恵と知識に驚いていた。
マリアとヨセフは心配していたことをイエスに伝えるが、イエスは「どうしてわたしを探されたのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当然であることを、ご存じなかったのですか。」と言う。
この語られた言葉の意味が2人には理解できなかったのだが、これはイエス自身が自分が神の働きのために存在していると知っていたことを示している。

少年イエスは、家庭では両親から、会堂ではラビたちから旧約聖書のことや律法について学びながら成長していった。

イエス・キリストの宣教活動

後にイエスが起こしたキリスト教はユダヤ教から生まれた宗教である。
キリストが誕生した頃のユダヤの国は「ヤハウェ」という唯一の神を信じ、その神との契約である「律法」を守る「ユダヤ教」が信じられていた。
その頃のユダヤの国は強大なローマ帝国に支配されていて、ローマ帝国やユダヤの権力者たちに収める税金は高く、多くの人々が苦しい生活をしていた。
そもそもユダヤ教は「神からもらった決まりを守るものだけが幸せである」というものだったのに対し、イエスは「神を信じる人は全て救われる」とし、イエスは全ての人は神を信じることで平等に幸せになれると説いた。

公生涯の始まり

イエスが公の場に出て活動した時期を公生涯というが、公生涯が始まったのは30歳の頃だった。
当時洗礼者ヨハネと呼ばれる人物が、「神の国」が近づいたことを伝え、人々に罪の悔い改めを説き、ヨルダン川で洗礼を授けていた。あらゆる地域から人々がヨハネの元にやってきて洗礼を受けた。
イエスもまたヨハネの噂を聞き、洗礼を受けにヨハネのところに来た。しかし、そもそも洗礼というのは、自分の罪を悔い改めて神に立ち返るという意味を持っている。神の子どもとして罪のない状態でこの世に来られた方が受けるべきものではないと、最初は恐縮していたヨハネもイエスの「今はそうさせてもらいたい。」という言葉を聞き、ヨルダン川でイエスに洗礼を授けた。
これは、イエスが後に人々の罪の刑罰を代わりに引き受けるためには、裁かれる側である「人」としての身分を明確に示す必要があったためと思われる。
洗礼が終わるとイエスは聖霊に導かれるようにそのまま荒野へ歩んでいき、野獣の住む荒野の奥にある険しい岩山に入っていくと、40日40夜、何も食べずに断食しながら、祈りと瞑想の生活に入り、新しい教えを広める強い意志を固めていった。
40日が終わり、空腹で痩せ衰え、意識も薄らいでいたイエスの前に悪魔が現れ様々な誘惑をかける。イエスは悪魔の誘惑を全て退け、新しい福音(より良い知らせ)を人々に解き始める。

宣教の開始

いよいよイエスはユダヤ各地で神のことを伝えるために宣教の働きを始める。
イエスはまず使徒と呼ばれる12人の弟子を選んで、寝食を共にしながら彼らを教えて育てた。弟子たちは特別な人間ではなくむしろ臆病なところもあったが、後に変わっていきイエスの継承者となり、大事な役割を担っていくことになる。
そんな彼らが書き残した手紙の一部が「新約聖書」となり、イエスの働きがどういうものだったのか、またどれほどの影響力があったのかを伝えてくれている。

イエスは優れた教師だった。その中でも「山上の垂訓(説教)」と呼ばれる説教は最も有名で多くの大切なことを教えてくれている。「自分の敵を愛し、迫害するもののために祈りなさい」「右の頬を打つものには左の頬も向けなさい」など私たちも一度は聞いたことのある言葉や、「主の祈り」と呼ばれる祈りについての教えなど、当時の人たちも今まで聞いたことのないような教えに次第に心動かされるようになる。

それまでユダヤ教の律法を守ることを大切としてきた人々が、「〜しなければならない」という律法的な教えではなく、神を信じてその恵みを受け取ることができるという恵みの宣言を知ったのである。だからこそイエスは、自分を誇れずにただ神にすがる以外できなかった取税人や病人、遊女らと積極的に関わり、神と隣人を愛することの大切さを教えた。
さらにイエスは、人々の病気を癒したり、死人を蘇らせたり、5つのパンと2匹の魚を5千人の群衆に分け与えるというような奇跡もたくさん行った。
それはイエスが自分の力を誇示したり、奇跡を売りにしていたのではなく、イエスこそが人々が長い間待ち望んでいたメシア(油注がれた者)であることを明らかにするためだった。

だんだんとイエスの名前が知られるようになってくると、地方からもイエスの教えを聞こうとする人たちが集まってくるようになった。しかしそのことをよく思わない人たちが現れ始める。それは律法を頑固に守り続けてきたユダヤの祭司や、パリサイ派と呼ばれる当時の人々の間で尊敬され影響力を持っていた学者たちである。イエスに対して警戒心を強めるようになり、律法を破るものとして訴えようとし始める。
それでもイエスは妥協せず、反発されても権威を持って真理を語り続けた。このようにイエスは多くの人に神の国について説き、約3年半の公生涯を過ごした。

エルサレム入城と最後の晩餐

イエスは後に十字架によって処刑されるが、その最後の一週間をエルサレムで過ごす。イエスと弟子たちはエルサレムに向かい、イエスはろばにまたがってエルサレム神殿に入城した。
その様子はイエスが生まれる約500年前、旧約聖書の時代にゼガリヤによって預言されていた。
イエスは預言されていた通りに神の子でありながら人の子として誕生し、生涯を送り、また後に十字架で処刑されることも知りながら最後の1週間を過ごすためにエルサレムに来たのだ。この1週間のことを受難週という。

イエスがエルサレムに来ると、過ぎ越しの祭りのために集まっていた群衆たちは、歓声をあげて賛美の歌をもってイエスを平和の王として迎えた。
しかしイエスと対立してきたパリサイ派の人たちやユダヤ教の指導者たちは、神の子であるイエスを殺すことで一致し、動き始める。

別の場面でイエスは、弟子たちと過ぎ越しの祭りを祝うための準備をしていた。これがあの有名なレオナルド・ダ・ヴィンチの作品の一つ『最後の晩餐』の場面である。

最後の晩餐

イエスは12人の弟子たちと共に夕食をとり、パンを「自分の体」、またぶどう酒を「自分の血」として、自分の十字架の贖いを忘れないようにと教え、弟子たちに与えた。これが現代の教会でも行われる聖餐式(ミサと呼ばれる)の始まりである。

イエスはこの翌日に十字架にかけられることになるが、当然そのことを知っていた。そしてこの12人の弟子の中に自分を裏切る人がいることを話す。
そしてその通りになり、弟子の1人であったイスカリオテのユダが、ユダヤ教の祭司のもとを訪ね銀貨30枚でイエスを引き渡す約束をしてしまう。そしてその夜、裏切り者のユダは武器を持った兵士たちを連れてイエスのもとへ行き、縄をかけてイエスを捕らえる。その時弟子たちはみな怖くなって逃げてしまった。

十字架刑

こうしてイエスは大祭司カヤパの宮廷に連行される。カヤパを議長とするユダヤ人の宗教議会は、「イエスは神を冒とくする者だ」として死刑という判決をくだすが、当時ローマの支配下にあった彼らにはイエスを処刑する権限はなかったので、イエスをローマ帝国の総督ポンティオ・ピラトのところへ連れていき、「大勢の人々をまどわし反逆を企てる政治犯」としてイエスを訴えた。

罪状を聞いたピラトは最初、イエスがローマの法律に触れるようなことは何もしていないのを知っていたので釈放しようとした。しかし彼らは引き下がらず、イエスを殺すように強く願った。民衆の暴動や、これ以上騒ぎが大きくなることを恐れたピラトはイエスの処刑を最終的に認めてしまう。

当時、十字架刑は、ローマ帝国でも反逆者のみが受ける最も重い刑罰だった。一つも罪を犯していないイエスはそんな十字架刑で処刑されることになった。
イエスは鞭打たれ、100kg近くもある重い十字架を背負い、ピラトの宮廷からゴルゴダ丘の刑場まで1.6kmの距離を歩くように強いられた。
刑場に着くとイエスは十字架に手足を釘で打たれ、「ユダヤの王、ナザレのイエス」というピラトの書いた罪状とともにはりつけられた。
イエスは苦しめられ殺されることを知っていたが、生まれてからこの時を迎えるまで真っ直ぐにその道を歩んだ。それは、これこそが神の子イエスがこの世に来た最も大きな目的だったからだ。

イエスが人間のすべての罪を背負って十字架で死ぬことによって、神が救いの道を用意してくれた。
そしてイエスは十字架の上でその生涯を閉じ、イエスの死体は墓に葬られた。

復活

イエスは十字架で死んだが、それで終わりではなかった。
イエスが処刑されて3日後の4月9日に、イエスに仕えていた女性たちがイエスの遺体に香料を塗るために墓にやってくる。ところがお墓の入り口を塞いでいた大きな岩がどかされており、墓の中を見てみるとイエスの遺体は消えていた。何者かに遺体が盗まれてしまったと悲しむ女性たちの前に天使が現れて、イエスが復活したことを告げた。そして女性たちはこのことを全ての弟子たちに伝える。イエスも弟子たちの前に現れて、自分が死に打ち勝ち復活したことを証明した。
最初は恐れてイエスの復活をなかなか信じることができなかった弟子も、槍でつかれたイエスの脇腹の傷跡や、十字架で釘打たれた手の傷を見て信じた。それまで臆病であった弟子たちが死をも恐れない立派な宣教者となることができたのは、このイエスの復活を目の当たりにし、さらには約束の神の霊を注がれたからだった。

イエスは復活してから40日にわたって弟子たちとともに過ごし、神の国についての話をした。
そして40日目に弟子たちの前でオリーブ山の山頂から天にのぼっていかれ、神の右の座に着かれたと聖書に書いてある。
その後、イエスの生涯と、イエスがこの世に来られた本当の意味が弟子たちによって世界中へと広まっていった。これが今のキリスト教になり、現在22億人もの人たちがイエス・キリストを救い主として礼拝している。

イエス・キリストの生涯についての感想

今回、キリスト教について学んでみて、なんとなく聞いたことがある名前や何度も見たことのある「最後の晩餐」の絵が初めて一本の線で繋がり、キリスト教を身近に感じた。
実際に存在していたということがなかなか信じることができないエピソードばかりでやっぱり私は架空の人物のような気がしてしまう。
人間ではなく神様という言葉がとてもしっくりくる。
そして、イエス様の「自分の目の前に現れるあらゆる人を愛せよ」という教えに愛の深さを感じた。
世界中の人がそんなふうに思えたら世界はもっと平和になるのかな。
宗教を身近に感じることなく生きてきたから、旅をしているとそれぞれの国の人々にとっての宗教の大切さにとても驚く。
信じるものが何であれ、信じることが大切なのかなと思う。
信じるものは救われる。どれも正解。
現在、グローバル化が進み、日本でもベールを身に纏っているイスラム教徒の女性や、全身オレンジ色のタイのお坊さんなどを見かけることが珍しくなくなってきた。
世界を旅していても、日本人に必ず出会うし、日本料理屋さんをよく見かける。
日本でも、中華料理、タイ料理、フレンチ、イタリアン、インド料理、、、本当にいろんな国の料理が食べられる。
世界は思っていたよりもずっと狭く、そしてどんどん狭くなっていくのだと思う。
いろんな国の人がいるとういうことは、いろんな宗教が混在するということ。
お互いを認め合い、争うことがない世の中でありますように。

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