モンテッソーリよりもデータ教。「生まれながらの力」すら凌ぐ、思想の威力
1.モンテッソーリ教育とは
先日、幼児を持つ友人からこんな話を聞きました。「モンテッソーリ教育の学校に子どもを入れようと思ってるんだよね」と。
まあ、この友人は、純粋に子どものためを思ってモンテッソーリ教育を視野に入れているのでしょう。自分の子どもを「かわいい」と思う気持ちには抗しがたいもの。自然淘汰で自身の子に愛着をもつ個体がDNAを繋いできたので、今生きている生物の多くには子に愛着を持つDNAが受け繋がれているはず。この友人も自分の子どもに愛着を持ち、「子どもに最善の教育を」と考えたに違いない。そういう意味ではこの友人を責められません。
モンテッソーリ教育とは何か。私も自分の子どもが小さいときに気に調べたことがあるのですが、改めて調べてみましょう。モンテッソーリ教育とはこのようなものです。
このようにモンテッソーリ教育とは、子どもが生まれながらに持っている力を前提とする、子ども主体の教育法と言えます。
2.モンテッソーリ教育と人間至上主義
ところで、この「生まれながらの力」とか「感覚体験」「主体性」というワードを聞いて、私には思うところがあります。私も普段、本を読んで情報を集めるようにしており、ここ最近読んだ本の中に、これらのワードをもつ内容があったのを覚えているのです。
その本とは、こちら。
資料としてヘビーに使わせて頂いています。「サピエンス全史」及び「ホモデウス」。歴史学者・哲学者のユヴァル・ノア・ハラリ氏の著書です。
「生まれながらの力」「感覚体験」「主体性」。これらのワードがもつ意味は、人間至上主義であるということ。「生まれながらの力」も「感覚体験」も「主体性」も、すべて人間至上主義という言葉で一括りにすることができます。
さて、人間至上主義とは以下のような思想を言います。
人間至上主義は19世紀頃に出てきた思想。これは科学が発達して、それまで世界を支配してきた宗教に取って代わる思想として広まったものです。
遥か昔、サルから進化したサピエンスがまだ狩猟採集民だった時代、まだ統一的な思想は地球上のどこにもありませんでした。文字すら発明される以前の時代であり、参考資料がないので想像するしかありませんが、社会の数だけ思想があったと言います。数十人、数百人単位の社会が地球中に存在し、それらの社会それぞれに、特有のイデオロギーがありました。例えば、ある特定の動物を神聖視する思想の社会があったかもしれないし、人間を食べることに罪を感じない思想の社会があったかもしれない。それから、今の地球ではマイナーな部類である八百万の神を信じる社会があったかもしれない。村落ができる前、それぞれの社会は交流が少なかったため、思想的にも独立していたと考えられるのです。
その後に人々は集落をつくるようになり、さらにはキリスト教が広がります。約1万2千年前の農業革命により集団で定住することに目覚めた人類は、集落を作って暮らすようになりました。集落が大きくなって、約5千年前に国ができます。国はヒエラルキーによる統治が、国を動かすのに有利。三角形のピラミッド社会ができ、権力がトップに集まります。王を崇拝の対象とする国もあれば、王とは別に神を崇拝する国もありました。とりわけ西洋で広がったのがキリスト教。神によって「光あれ」から世界が創られ、人間は神の被造物との教えが広がります。
そして19世紀に入り、宗教の代わりに広まったのが人間至上主義です。科学革命により、宗教は隅に追いやられました。人間は神の被造物ではなかった。この世界は神が作ったものではなく、物質の偶然の出来事により作られたものだった。キリスト教は、「神が作ったから、この世には意味がある」との教えであったため、科学知識が広がりによって「神が作ったのでなければ、この世に意味なんてないのでは?」と、悲観的になりそうだったところですが、人々は神抜きにして世界に意味を見出します。それが人間至上主義。
人間は生まれながらに人生を切り開く能力をもっており、私たちがすべきは、その生まれながらの能力を見出すことだった。「神がいなくても、この世には人間という素晴らしい存在があるじゃないか」と。悩んだときや迷うときは自分の心に耳を傾け、「何が自分にとって心地いいか」本当の気持ちを知る。自分の心に従ってする選択こそが最良の選択となり得る。経験を広げ、感覚を鋭敏にし、何者にも束縛されず、自由意志に身を任せる。それが人間至上主義。
どうです。人間至上主義とは、モンテッソーリそのままでしょう。ユヴァル・ノア・ハラリ氏の本に「モンテッソーリ」というワードはありませんでしたが、おそらくモンテッソーリという教育法も人間至上主義という流れの中で出てきたはずです。現にマリア・モンテッソーリは19世紀に西洋で生まれた人ですし。人間至上主義の影響をもろに受けて教育法を考えたはず。
つまりモンテッソーリ教育とは人間至上主義と同系統の思想であり、思想である以上、決して普遍の法則ではなく、1つの流行りに過ぎないのです。
3.人間至上主義の終わり
人間至上主義も数ある思想のうちの一つであり、流行り廃りの中で生まれたもの。現に人間至上主義に対して、私たちは疑いを向けられます。
例えば、私たちが求める幸せとは何でしょうか。幸福は、脳内の出来事に過ぎません。脳内でセロトニン、オキシトシン、ドーパミンの化学物質が分泌されているときに、人は幸福を感じます。だから、最高の幸福感を得るために、世界最高峰のサッカープレーヤーになってワールドカップの決勝でゴールを決める必要はありません。空腹時に近所のラーメン屋に行ってチャーシュー麺をそそれば、それで十分なのです。ワールドカップの決勝ゴールにしろ、近所のラーメンにしろ、脳内で分泌される物質は同じなのですから。であれば、子どもにムリに高等教育を施すことに意味はないのではないでしょうか。
人間の自由意志も疑わしいものです。私たちは主体性をもって、自分の欲望に従って行動するときに自由を感じますが、その欲望すら外からコントロール可能なのですから。ラットの実験により、私たちは脳へ埋め込まれた電極で対象を自由に動かせることがわかっています。しかも、その対象(ラット)は、行動をコントロールされているとき、自分の内なる欲望と快感に従って行動していると信じているのだとか。
それから、自分の内なる声は曖昧です。自分の本当の気持ちをもっている「自己」を特定するのは、容易いものではありません。例えば、人はよく後悔をします。進学して悔いるし、就職して悔いるし、結婚して悔いる。「あの時の判断は間違いだった」のだと。けれど「あの時の判断」の時点では、決して自分が間違った判断をしているとは思っていなかったはず。常に「自分は最良の判断をしている」と考えての行動でさえ、私たちは後悔するのです。であれば、一体どれが本当の自分の気持ちなのでしょう。
このように、人間至上主義には疑いを挟む余地が十分にあり、人間至上主義は油断のならない概念になってきているのです。
4.これからのスタンダード。データ教
個人の感覚や経験を重視する人間至上主義が信用できないのなら、これから私たちは何を信用すればいいのか。「ホモ・デウス」によれば、それはデータだと言います。
データ教やデータ至上主義は、あらゆる出来事・森羅万象がデータの流れからできていると考えます。政治も、経済も、スポーツも、芸術も、人間の意識も、すべてがデータ。
政治家は、民意を知りたかったらSNSを調べるのが一番だし、経済でも株式取引き市場はすでにコンピューターが主導権を握っています。
スポーツは勝とうと思ったら味方や対戦相手の戦績を集めるのは定石だし、芸術もAIが人間の目を引く画像を作るようになっています。
人間の意識もデータの流れであり、アルゴリズムと考えられます。「アナタへのお勧めは以下の商品です」という判断をAIがアルゴリズムで導き出すのと、「これが欲しい」という判断を人間が自身の経験や感情から導き出すのでは、何も違わないだろうというのです。
科学により、私たちはデータという情報源を得られるようになりました。人の主観に左右されず、外側から対象を分析する客観の目。
科学が導き出した結論により、陽子と中性子はクォークというより基本的な粒子によって作られており、インフレーション理論とは初期の宇宙が指数関数的な急膨張を引き起こしたという進化モデルであり、病気の原因にもなるウィルスとは他生物の細胞を利用して自己を複製させる極微小な感染性の構造体であることがわかりました。
データによって私たちは、感覚や経験を追い求めていただけでは得られなかった世界を見られるようになったのです。
5.反論不可能。思想の威力
データ主体の教育については、反論があるかもしれません。すなわち、無機質なデータなんかより人間味のある教育がいい、と。
データ至上主義なんて、どこか無慈悲な感じがしますよね。冷徹で、無表情で。可哀想なことも平気で遂行できるような、紛争地域での子ども兵士を育てるような教育。
それよりも、人情で子どもを育てたい。子ども自身に寄り添って、子ども本人の身になって、子どもが心から納得できるような環境で子育てをしたいと。それでこそ子どもの本当の笑顔が見られるのだと。
けれど、人情よりもデータなんです。というのも、データで根拠付けられると、誰にも反論できないですから。おそらく今のところ、データが導き出した根拠に客観的に反論することは誰にもできないでしょう。たとえどんなに無慈悲なことでも「統計的には……」と言われると説得力を感じてしまう。データが導き出した統計に正当性を感じてしまう。
私たちはデータを最良の根拠だと考えます。
子どもがいくら「得意科目は数学だ」と自分で言っても、テストの点数や偏差値が、数学よりも国語の方が高ければ、「本当は国語が得意なのだろう」と考えるでしょう。
スポーツもです。野球で打者が打席に入る時、彼らは相手ピッチャーのこれまでの戦績をすでに研究しています。そのデータは、監督の眼力よりも質が高いはず。監督が相手ピッチャーを見て思いつきで言うアドバイスよりも、戦績によるデータの方が信頼度が高い。
経済も。市場で何が売れそうかを少しも調査しれデータをとらず、長年の経験を頼りに商品を作る企業はいないでしょう。
データで示されたものに対して私たちは反論しようがなく、データに対して私たちは、人間の内なる本心(人間至上主義)よりも説得力があると考えるのです。
人間の「生まれながらの力」や「感覚体験」や「主体性」をもとに判断するより、データで客観性を示す方が、「そのとおりだ」という納得を引き出せる。
これが思想の怖いところなんです。今はデータ至上主義が世界に蔓延している時代。データで根拠付けられたことには「当たり前だ」と疑いを挟むことができない。どんなに直感的に賛同できないことでも、「統計でこうなっていますよ」と言われると、間違っているのは自分の方だと考えを改めてしまう。反論に窮してしまう。そんな時代。「データは正しい」という思想の中にいる以上、「どうすれば統計の正当性を覆せるのか」というデータの外側を想像することは難しい。広まってしまった思想には逆らえない。これが思想の威力なんです。
参考
著者のユヴァル・ノア・ハラリ氏は、イスラエルとハマスの衝突についてどう考えているのだろう。氏は本書内において「もう戦争が起こることはないのでは」なんて楽観論だった。この2冊が書かれたのは、2023年のハマスによるゲリラ攻撃の前。ロシアのウクライナ侵攻については「文庫本あとがき」で「そんなこともあるよね。世界平和なんて綱渡よね」なんて人ごとのように見ているようだったけれど、自身の国イスラエルの軍事侵攻についも客観的でいられるのだろうか。それとも「ハマスへの対応は別だ」なんて強行主張になるのだろうか。歴史を俯瞰し、哲学をも研究する氏の見解を聞きたい。
Kindle版の目次をしっかりとつくってほしい。表現が分かりやすいので引用を多様するのだけれど、左上の目次から細かく飛べないから引用箇所をスワイプで探すことになる。厚さがある紙の本ですら、箇所を探すのにに苦労するのに、ましてや厚さがなくディスプレイ上で見るしかないKindleでは、目次が使いやすいように作られていないと引用箇所を探すのに苦労する。目次を改善して欲しい。
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