ケンカの必要条件。民度の定義
1.「民度」をいかに定義するか
民度の定義について考えています。というのも、こちらの記事を聞いたから。
「民度の高低を感じるのはどんな時? そもそも民度ってなに? あなたにとっての民度の定義は?」です。私も仕事の中でよく「民度」という言葉を使っていたので、この音声記事が引っかかりました。仕事というのは警察の仕事、です。「まったくすぐにバイクで暴走行為しやがって。ここいら地域の人間は民度が低いな」とか。ケンカをしていた人間を見ながら「こういうのを民度が低いっていうんだよな」とか。裏で言っていました。その経験を踏まえての、私の民度の定義。
ちきりん氏は、民度を「相手の気持がわかること」だと言います。弱者の気持ちがわかり、弱者のためにいたわる心をもつこと。その例として、氏は2つの事例を提示します。一つは、横断歩道に人がいるときに車が止まるかどうか。欧米での経験を例に上げ、欧米に比べて日本は横断歩道に人がいても車が泊まろうとしないのだと言います。もう一つは、トイレが綺麗か汚いか。トイレは他国と比べて日本がトップで清潔とのこと。カフェや飛行機のトイレなど、汚く使われているのを見ると民度の低さを感じるのだと言います。
このように、横断歩道に人がいるにもかかわず車が止まらない状況や、汚く使われたトイレを見ると、民度の低さを感じる。なので、民度は「相手の気持ちがわかること」だというのがちきりん氏の考えです。
ウィキペディアで民度を見ると
と書かれており、決まった使い方、統一された意味はありません。人の数だけ民度の定義があると言えます。なのでちきりん氏の言う「相手の気持がわかること」でももちろん良い。
でもってちきりん氏とは違った民度の使い方もまた、あっても良い。というか、氏も「アナタにとって民度の定義は? どんなときに民度を感じる?」と聞いているように、それぞれ意見を出し合った方が、より民度という言葉の意味が鮮明になるでしょう。尋ねられた方にとっては、説得力や個性の見せ所です。私にとっての民度はどういう意味か。どんな時に民度を感じるか。
私にとっての民度は、「一方的にものを見てはいけないことをわかっているかどうか」です。というのも、感情的になって自分の見方から離れられない人を見ると、私は民度の低さを感じるからです。
2.トラブルの必要条件。警察官の経験から
前述したように、私は以前警察官をしていたときがあります。そのときに頻繁に接したのが、取り乱して感情をあらわにする人たち。
普段、私たち人間は、取り乱すほど感情を表に出すことがありません。人間関係の中で、取り乱すほど感情を出すことは不利益になることを知っているからです。仕事上はもちろん、それ以外の日常でも、感情丸出しで生活している人とは付き合いたくないでしょう。すぐに怒ったり、急に笑ったり、そうかと思えば泣いたり。付き合いきれなくなります。普通の人が取り乱すほど感情を表に出すのは、例えば、言い争いや小競り合い、ケンカ、つまりトラブルのときです。
警察官は仕事上、トラブルの仲裁をするように呼ばれるので、取り乱すほど感情的になって怒っている人たちと頻繁に接することになります。彼らを見ていて思うのは、「視野が狭いなあ」ということ。
「道を歩いていて突然、ケンカを売られた」というが、何も無いところから突然ケンカが始まるわけがありません。何かしら原因があるはず。もしかしたら自分に非があったのかもしれません。他人が不快に思う言動を、自分が気づかぬうちにしていたのかもしれない。それなのに、「自分は悪くない」の一点張り。
交通事故だって、誰も起こしたくて起こすわけではありません。何かしらの不可抗力があったと考えられます。その不可抗力は自分の運転にあったのかもしれない。例えば、速度が速かったとか。車間距離が詰まっていたとか。それなのに、一方的に「自分は被害者だ」とか。
警察の仕事の中で、小競り合い、言い争い、どつきあい、トラブルを起こしている人を見て、往々に「視野が狭いなあ」と思ってきたのです。
視野狭窄とケンカは、必要条件と十分条件の関係にあります。
トラブルを起こして誰かとケンカしていることの必要条件が、視野狭窄。狭い視野で物事を見ている事が原因で、他人とトラブルが起きます。自分が見ている世界から離れられないし、俯瞰的に物事を見られません。だから他人とケンカになるのです。
他人とトラブルになっているということは、視野狭窄の十分条件。他人とトラブルになっているということは、それだけで視野が狭いと言えます。狭い視野で物事を見ている結果が、他人とのケンカです。
このように、ケンカしている人を見て私が感じるのが、知的水準や教育水準の至らなさ。つまり民度の低さ。ケンカをしている人は、視野が狭く一方向(自分の側)からしか物事を見られなくなっているので、「一方的にものを見てはいけないことをわかっているかどうか」が、民度の定義なのです。
3.間違っているのは自分かも。構造主義の源流から
「一方的にものを見てはいけないことをわかっているかどうか」を私が民度の定義とするにはもう一つ理由があって、それはこの定義が構造主義を反映していることです。
ここからは「寝ながら学べる構造主義」を参考にします。
私たちは(少なくとも冷静でいるときは)、一方的に物事を見てはいけないことを理解はしています。一方的に相手に対して言い寄っている人を見れば、多くの人が「まあまあ、相手にも相手の事情があるわけだし……」とでも言うでしょう。相手だけが悪いわけではないことを示し、当事者を落ち着かしょうとします。でもって、このように中立的に仲裁する人を見れば、多くの人が「妥当な仲裁の仕方をしている」と思います。反対に、一方的に善悪を判断して、片方に「お前が正しい」と、そしてもう片方に「お前が悪い」と決めてかかる人はまずいないでしょう。
このような「相手にも相手の事情があるから一方的な善悪は判断できない」という考えは、実は最近出てきた考えです。昔からあるわけではなく、ましてやこれが人類普遍の考え方ではありません。これが正解というわけでもありません。この「自分は間違っているかもしれない」あるいは「間違っているのは自分の方かもしれない」という考えは、19世紀になってから広まった考えです。
「寝ながら学べる構造主義」では、この思想の源流をカール・マルクスに求めます。カール・マルクスは19世紀ドイツの哲学者。もちろんマルクスよりも古い時代の知識人たちにも「自分は真実を認識していないのかも」と客観的に考えた人はいたのでしょうが、それはもっぱら頭の中での話でした。自分が真実を認識していない可能性を、現実の問題として考えたのは、マルクスが初めてだったのだと言います。
マルクスは、人間は自分が思っているほど自由に物事を考えてはおらず、思考は自身が属する階級により規定されると考えました。住んでいる地域で考え方は異なるし、性差でも考え方は異なる。働いている業界、経済的なゆとりの程度、経営者か被雇用者かでも見え方が違う。しかも、このように考えを規定されているということを、本人は直接に認識できない。自分としては自由に物事を考えていると思っており、考えが隔たっていることに気づかないのです。
私たちは、直接に自分が何者であるかを理解することはできません。己は真実を認識できないのです。
「間違っているのは自分かもしれない」というのは、構造主義が生まれ広がっていく中で生まれた考えであり、構造主義を表した言葉。なので、思想好きの私としては、「一方的にものを見てはいけないことをわかっているかどうか」を民度の意味として考えたいと思うのです。
実際、民度と構造主義的な考えは、それほど隔たってはいないでしょう。「民度」と聞けば、多くの人が「寛容的であるかどうか」や、「優しさを持っているかどうか」や、ちきりん氏の言う「相手を思いやる気持ちがあるかどうか」を思い浮かべます。寛容や、優しさや、思いやり。それらをひっくるめた原因が、構造主義的な考えをできるかどうかです。なので構造主義的な見方をもつことで、ちきりん氏の言う民度の定義よりも、もう一歩深く考えているのではないかと思っています。
このように、私は警察官の経験を通して、視野狭窄に陥って感情的になっている人を頻繁に見てきており、そんなときに「民度が低いなあ」と感じました。また、私は思想が好きで、「一方的にものを見てはいけない」とは構造主義という思想を反映した考えです。だから、私は「一方的にものを見てはいけないことをわかっているかどうか」を民度の定義として考えます。
アナタはどういう意味で「民度」を使っていますか? アナタはどんなときに民度を感じるでしょうか?
本は汚すと、より自分のものになる気がします。
この本はヘビーで引用することから最近、紙の本でも買いました。今まではKindleで読んでいたのですが、紙の本の方が使いやすそうなので。引用できそうな箇所に印をつけたり、引用箇所できそうな箇所を探したり。ペンで線を引っ張ったり、書き込みをしたり、折り目をつけたり。印やら文字やら折り目やらをつけていって、自分の垢を付けて自分のものにします。そうすると、結果的に内容をより深く理解している本であることが多いです。
本を汚すこととその本の理解に相関関係はあるようですが、論理的な因果関係は果たしてあるのか。時間的前後関係を論理的因果関係と勘違いすることをポストホックの誤謬と言うそうです。この場合はどうでしょうか。
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