ネクラの自爆

 皆が口々にいいと言うから、ようやく映画『ボヘミアン・ラプソディ』を観てきた。
 素晴らしかった、とだけ言っておこう。この映画についてはすでに多くが語られているし、今さらわたしが付け足すことはなにもない。それに、大ヒットしている作品をあらためて応援する必要もないだろう。

 レイトショーだったから、観終わると日付が変わろうとしていた。興奮さめやらぬなか、QUEENを大音量でかけながら夜道を帰った。
 道すがら、ふと考えてしまったことがある。これはネクラの妄言、社会的落伍者の戯言にすぎない。書くか迷ったが、ふたたび、この映画は大成功をおさめているのであり、また、この寝言は映画自体をなんら腐すものではないから、ファンの方々の痛痒とするところでは全然ないはずである。ただもう全くもっておもしろいものではないことを断っておく。

 以下――。
 現在でも一定数いる、同性愛にたいして否定的な意見・感覚をもつ人々もこの映画を観にいって感動するのだろうか、ということだ。彼らも、フレディの苦悩やそれを背負って進む力強さに心をうごかされるのだろうか。

 動員数から考えるに、そうした人たちも映画館に足を運んでいることだろう。しかし、では彼らはこの映画を楽しんだのか、楽しまなかったのか。どちらにしても、薄ら寒い思いがする。
 いや、どちらかといえば、楽しめなかったと言ってほしい。「『普通でない』ゲイの人間の苦悩に、『普通の』人間のわたしが感情移入などできるわけがない」と一蹴してくれるほうがまだいい。なにより不気味なのは、ふだん差別意識をもっていながらこの映画をシレッと楽しみ、涙を流しさえした者が、おそらくなかには居るということだ。
 もちろん、この映画は同性愛を最大の主題とはしていないし、楽しむポイントはいくつもある。だが、最後のライブシーンの感動に至る要因として、フレディのゲイゆえの葛藤や孤独が作用していることは明白である。楽しめたとすれば、それに目をつぶることはできないはずだ。
 たしかに、同性愛者にたいしての否定的な意見・感覚といっても、程度があるだろう。スクリーン上や舞台上の人物としては気にならないが、隣人になるのはイヤだという人もいるだろう。いや、むしろそうした人はかなり多いのかもしれない。だが、だとしたらこんなに悲しいことはないではないか。遠くの同性愛者には同情するが、近くにくれば忌避するというような態度は、現実の差別問題を一向に解決しないどころか、同性愛者の苦悩を生みさえする。

 これはただの一例である。同様の事態は、たとえば同性愛者の芸能人の扱われ方にも見てとれる。「普通でない」人々を見世物としてのみ受容しつづける残酷。
 この、自民党が政権を握り、同時に映画『ボヘミアン・ラプソディ』が大ヒットする世の中に、わたしは希望よりも絶望を感じてしまう。映画がすばらしかっただけに、それを観てこんなことを考えた自分がかなしい。

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