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晴れても降っても休む

抜けるような青空を見上げていると、労働意欲は蒸発してしまった。*

 こんな日に働くのは罪悪だとすらおもわれる快晴のきのうだった。わたしは罪を犯したくないので、ひねもす縁側で陽光につつまれていた。無辜の人、アヅマチガヤ。

 そうして雨天のきょうである。雨が降っては野良仕事ができない。休めといわれている。仕方がないから休みにする。

 左様、晴れても降っても休みである。すべては天気次第だ。わたしの怠惰のせいではもちろんない。
 願はくはこうした天候主義を、自給のための野良仕事にだけでなく、賃仕事にも導入したいところである。その点、わたしを含め社会のほとんどの者が罪人だ。皆、天気など関係ないかのように、場合によっては制御できない厄介なものとして苦々しく思いながら、働いている。
 しかし、天気には従わなくてはならない。従って、なに不都合のことやある。快晴なら休み、雨天なら休み、という単純明快な労働基準を加えるのだ。そうすれば、社会はよくなるはずである。

 おそらく、わたしたちはもっと〈しないこと〉の訓練をすべきなのだ。わたしたちはあまりに「しすぎる」。その結果、誤る。
(海を埋め立て基地をつくり、山を切ってソーラーパネルを設置する!)
(だいたい「休む」という言葉自体が〈すること〉を基準としたものだからいけない、と思われるが、まあそれはいい。)

 しないでいられる〈強さ〉を培うこと。
 その強さは、見田宗介がいう「存在するものの輝きと存在することの至福を感受する力の解放*」と重なる。また、國分功一郎は「楽しめるようになるには訓練が必要だ*」と言っている。
 海を海として、山を山として、日光を日光として、雨を雨として、あなたやわたしをあなたやわたしとして、何かの手段とすることなくそのまま楽しむ力の解放への訓練とはどんなものか。

 それは、〈しないこと〉をあえて「する」ことではないか。わたしはそう思う。
 だからこそ、快晴の日、雨の日は存分に休むのだ。そして、休みだからといってショッピングモールに繰り出したり、出来合いの娯楽に浸ったりしすぎないことだ。休みなのだから、太陽や雨雲の仕事を「めっちゃ晴れてるやん」「雨降ってるなあ」と、ただただ皆でおもしろがっていればよいである。彼らの仕事にまさるどんな人為もないのだし。

 ……ああ働きたくない!


*『つち式 二〇一七』98頁
*見田宗介『現代社会はどこに向かうか』岩波新書 18頁
*國分功一郎『暇と退屈の倫理学(増補新版)』太田出版 356頁

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