イエローブラックホール-感想③

わたしが生まれ育った山梨(甲府)は、テレ東の番組が普通に見られる。
とくべつ好きな番組があったわけじゃないけれど、普通に映るから意識もしていなかった。

だから新潟に移り住んで、そっか見られないのか・・・ってしょんぼりしたり、くぅ〜〜〜またテレ東かよ〜〜〜ってやきもきすることもあったり。

今はもう配信やBSで観られるから、そのモヤモヤ感が懐かしくもあるし、そういうちょっとした不便さが愛おしかったりして。



世の中の流れを見ていった時に、もう「語れないコンテンツ」は終わっていくんだなと

作品に対して深い愛を持って向き合う作り手と、その作品は信頼できる。

好きよりももっと先。
信頼できるな、と思える作品はそう多くない。

映画の舞台挨拶や舞台のアフタートークで、そういう話が聴けると本当に嬉しくなる。
裏側を語らないという美学、本編が全てだ!受け取れ!みたいなものもあるのだろうけれど、わたしは積極的に知りたい。

・・・と言いながら、自分自身の書の作品は、制作意図を発表していない。
なんか言い訳っぽくなるだろうし〜と思っていたけど、それって自分の中にぜんぜん作品が染み込んでいないからだ・・・作ったの自分なのに。

なにそれ、寂しいな。

今まで全く気がつかなかった。
これはちょっと歩幅の大きい一歩かもしれない。



映画やドラマはカメラとかアングルでも人物を描けるじゃないですか。仮に役者が無表情で立っていても、カット割りで感情が表現できる。一方、芝居はつま先から頭の先まで全てをオーディエンスに観られている状態で、そこで「生きている」のがお客さんにダイレクトに届けられる。なんですかね、飛び出す絵本みたいなことじゃないですか。

そう、それ。それです大東さん。

自分が現地で観ていた公演が円盤として発売されたとしても、
あれ?わたしがあの時感動したあの人の動き、入ってない・・・ってなりません?なるよね?

(逆に、お目当ての人以外の素晴らしい演技は円盤のおかげで知ることになるのだけど)
("全景映像"を初めて知ったときの感動といったらもう)

だからね、現地に行くことを辞められない。
拍手、という小さなエネルギーだけど、”ダイレクトに届けられる”っていうのは、わたしたち観客も同じだから。


ああ、劇場に行きたくてたまらなくなった。
ついつい当たり前のことにしてしまっていたけれど、当たり前のことがいくつもいくつも重なっていたから、劇場で芝居が上演されていたし、自分も足を運べていたし、たくさんの人と感動を共有できていたんだよなぁ。

今はひたすら耐えるしかないけれど、また当たり前が戻ってきたときに、演劇に対して、観劇以外にできることって、なにかあるんだろうか。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?