かもしれない人生

小さい頃から、窓の外を眺めるのが好きだ。

大人になった今でも、とくに用がなくともベランダに出て外を眺める。最近、わたしの家から見えるものといえば、スーパーの建て替え工事の様子。何台ものショベルカーが稼働しているのは、ブラキオサウルスの群れがいるみたいで、とてもかわいい。

子供のころ住んでいたマンションの窓から見えたのは、畑、友達が住んでいたマンション、大学キャンパス、あぜ道で犬を散歩させる人。

高校生のころは、通学電車から、ぬいぐるみがたくさんある保育園や、朝練に励む中学生を眺めたり。

社会人になってからは、小田急の窓から新宿のビル群と、唐突に現れるお城(のちにモスクだと知りました)を眺めるのが毎朝の日課だった。

どれも、なんてことないけれど、なぜか鮮明に残っている風景。

窓の外を見ていると、そんななんでもない風景の中には人が生きていて、たくさんの人生があるんだよなあ…と、なんだか不思議な気持ちになる。

毎日のくらしというのはささいなことの積み重ねで、その積み重ねこそが、その人自身の深みやおもしろみになる。そして、そのささいなことというのは、他人から見たらどうってことのない出来事でも、当の本人には、また違う意味があったりもする。

たとえば、コンビニでお客さんが何の気なしに挨拶がわりに言った「ありがとう」に小さな幸せを感じる店員さんもいれば、彼氏からの返信の遅さに寂しさを感じる女の子の相談に乗りながらも「遅いぐらい別にいいじゃん」と感じている友達がいるように。

というか、人はみんな考え方は違うから、きっと全部、その出来事の大きさも意味も違うんだろうな。

わたしが何気なく見ている風景には、たくさんの人の物語があるけれど、それを知ることはできない。わたしと交わることのない誰かの人生。だけど、もしかしたらどこかで交わるかもしれない。

その「わからなさ」とも言える、計り知れない希望や期待が、わたしが窓の外を見るのが好きな理由なのかも、とふと思った。

あの家に住む人は、どんな人で、どんな生活をしているんだろう。なんの関係もないんだけど。

でも、もしかしたら同じ漫画を読んだことがあるかも。もしかしたら、星座なんかが一緒かも。

もしかしたら、どこかですれ違ったことがあったかも。もしかしたら、これから出会うかも。

もしかしたらそれが、わたしの人生や、その人の人生が、大きく変わる瞬間かも。


そんなことを思いながら、今も新幹線の窓から外を眺めています。

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