小説と記憶

素敵な小説に出会った。

唯一ハマった小説家と作風が似ていて、素朴だけど人間味があって温かい登場人物たちを、自分だったら見逃しそうな視点から照らしていた。

その小説の主人公は、どこか親近感が湧くものの、自分との共通点は少なかった。彼女が大好きな親友と、環境の変化で離れてしまった切なさと、「これが私にとって全て」といえるものがある真っ直ぐさは、自分の人生経験の中では持ち合わせていない要素だった。


私は趣味も人間関係も、広く浅くでやってきた。習い事は何をやってもそれなりには様にったが、ズバ抜けた才能もなければ、それを埋め合わせられるほどの努力家でもなかった。人間関係に関しては、中学生の頃クラスで一番仲が良かった子が人気者で、その子が自分が属していないコミュニティに囲まれている間の孤独感がイヤで、誰とでも仲良くなれるよう心掛けていた結果、誰とも深い仲になれなくなるという弊害が生まれた。だから自分の全てを賭けられる何かはなかったし、離れてしまって切なくなるような親友もいなかった。


という話を母にすると、「でもあんた、小学生の時にお友達が引っ越しちゃったやん」と言われた。え、誰?ってなった。転校してしまったクラスメイトを脳内でリストアップしたが、この話に値するほど距離が近かった友達は見当たらない。「マリって子、覚えてない?」


電流が走った。ああ、ちゃんとフルネームと顔を思い出せる。


その子は確かに、クラスの中でも特に一緒にいる時間が長かった。明るくて優しくて、いっぱい一緒にふざけて笑い合った。それが、夏休み明けだったか、急にいなくなった。

小説を読んだ後の感情の起伏も相まって、涙が溢れてきた。


大好きだったはずの友達を忘れていることが悲しかった。

一緒に卒業できなかったから、せめて心の中にはずっといてほいかった。

忘れるなんて絶対にしたくなかった。

いつの間に忘れてしまったんだろう?


「辛かったから忘れようとしてたのかも」と母が言った。

小学生には分かり得ないことだったが、恐らく家庭の事情で、母から見ればトラブルがあったようにも感じたらしい。担任の先生に聞いても、詳しくは言えない、といった反応だったらしい。


彼女に手紙を書いた記憶がある。欠席者のための「お休み連絡シート」みたいな紙も、当番の子が毎日書いていた気がする。隅っこに書かれたイラストたちに色を塗って。皆待ってるよ、といつかまた登校する日を健気に信じて待っていた。

それを全部「届けとくね」と受け取っていた先生はどんな気持ちだっただろうか。何も知らない小学生の真っ直ぐな目は、その期待が叶わぬことを知っていると痛かっただろう。


「またどこかで会えたら、元気だといいね」と母。彼女は今どこにいるだろうか。

当時の手紙は読んでくれていたか、転校後どんな友達と出会ったのか、知る術はない。しかし、私の知っている彼女は、どんな辛いことも乗り越えられる強い女性だった。

将来なにかの拍子に有名人になって、『あいつ今何してる?』的な番組に出られることになったら、真っ先に彼女の名前を出そう。


小学生の自分は、自分のことに精一杯な今の私よりよっぽど周りの人を大事にしていた。旧友たちと再会した成人式では、びっくりするくらいいろんな人から再会を喜んでもらえて、過去の自分の人望が眩しかった。この優しさや思いやりはどこに置いてきたのだろう。しかし、皮肉にも当時と髪型しか変わらない友人達に、「あんたが一番変わらんな!」と言われた。どこかの引き出しに仕舞ってあるのなら、取り出して埃を払わなければ。あまり外食が推奨されないご時世が邪魔をするが、新年度はもう少し周囲を大切にしよう。


小説が、自分じゃない誰かの人生をちょっとだけ主観で覗かせてくれたから、約10年前の記憶を呼び覚ましてくれた。「1度人生で経験できることはあまりにも少ないから、本を読むことで他の人の人生を経験した方がいい」と、その学期一番のお気に入りの般教の先生が言っていた。しかし、本には自分の人生を振り返らせる力もあるようだ。他人の主観に入り込むということは、自分を客観視できているのかも知れない。


あまり本を読む方ではないが、他人の人生を歩めるのなら、少し頑張ってみたい。もしかしたら私の人生には思っているより多くの登場人物がキーパーソンとして出てきていて、埃を被った取り柄も見つけられるかもしれない。


最も、小説を読んでいる間はそんなことは忘れて、VRが開発される十何世紀も前からある「他人が見た景色」に浸るのが一番である。

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