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どっちでもいいよは大罪

「どっちでもいいよ」ってめっちゃ便利な言葉じゃないですか。実際ぼくもしょっちゅう使っちゃってるんですけど、この言葉って相手のことを思いやってるようで、実は負担を押しつけてるだけな気がするんですよね。

こんなことを唐突に思わせてくるシチュエーションが昨日ありまして。

友達とLINEしてたんですけど、あの、リアルタイムでめっちゃテンポいいタイプのあれです。あのタイプのLINEしてたら僕は不意に、え、電話でよくねって思う時があって、昨日はそのテンションだったので「電話にする?」って聞いたら友達が

「どっちでもいいよ~」

・・・

まああるあるの会話ですよね。彼はおそらく僕の好きなようにしていいよ~って意味で言ってくれたと思うんですけど、その後2分くらい電話してもいいのか・・・?と謎の駆け引きみたいな間が出来ました。おお、気まずい。

彼は親しい友達なのでどっちでもいいよ~と濁された時点で、まあ電話かけるか、となるんですが、これが初対面の人とか、よっ友的な人だと話は変わってきます。さっきのシチュエーションだと 電話してもいいのか? やんわり断られているのか?と考えすぎて結局同じ質問を繰り返すしかないと思うのです。そう。同じ質問を繰り返すしかないのです。多分大事なことなので2回繰り返しました。だってよく考えたらイエスorノーの質問に対してどっちでもいいって質問の答えになってないやん!って感じですもん。これは以外と盲点でした。相手に選択権を委ねてるという意味で相手への思いやりだと捉えることも出来ますが、同時に質問を投げられている時点で自分の意見を聞きたいんだな、という相手の意図もくみ取るべきなのかなぁ、日本語ってむずいなぁと感じました。

そんなことを考えていたら、そういえば高校生の時に市の弁論大会に出て、同じようなこと喋ったなということを思い出しました。その弁論大会というのは高校2年のときに国語の先生に半ば無理矢理出場させられたスピーチコンテストみたいなやつなんですけど、そのとき僕は、若年層の選挙投票率の低さについて喋ってたと思います。多分。投票に行かないってことはどっちでもいいって言うことすらも放棄してますよね、自分からアクションを起こしましょうぜみたいな内容だったと思います。全くその通りだなと、高校生の自分を褒めてやりたくなりました。高校の時からそういう思考をしていたと言うことは自分は白黒はっきりさせたいタイプなんだろうと思いますけど、少なくとも、どっちでもいいよっていう言葉を相手のためにという理由で言うのは控えようと思いました。って話です。


ここまで読んでいただいた方は分かるかもしれませんが、この投稿が僕のnoteデビュー作です。非常につたない文で読みにくいかと思いますが、これから探り探りでちょっとずつ投稿していこうと思いますので良かったらフォローとかハートとかしてくれるとうれしいです。

まあ、どっちでもいいですけど。。。

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