見立てにおける選択性と偶有性の問題

モデルとは、「もの」に即して感知されている情報が捨てられ(≒「知覚」)、再構築される過程で、絶えず析出される複製である。それを私たちは追体験する形で模倣し、行動している(≒「技能」)。

    知覚
    ↓
[もの]再構築/複製/模倣
           ↓     
           技能

再構築され変化していく「もの」への情報は、変化しないイデアを逆照射していく。

〈イデア〉
変化↓↑
[もの]
  ↓↑逆照射

その手法として、「見立てる」ことが使用された。「もの」を用いて、「〜の動きのようだ」ということで、その背後にあるイメージでもって、イデアに迫ろうとした。

  〈イデア〉
イメージ↓
   [もの]
    ↑「〜のようだ」

※イメージ≒知覚
※「〜のようだ」≒技能

しかし、イデアに迫るのには、二つの困難がある。「もの」にまつわる情報のフェーズ、すなわち再構築/複製/模倣における、二つの溝である。一つは、複製を模倣する際の選択性だ。地からの出てくる図、これが複製の意味であるが、その図の全ての要素を模倣することはできない。意識的に選択せざるを得ない。しかし、そこに全体性があるとされるから、身体性の必要性が語られる。頑張って感じる限りで、可能な選択肢を全て網羅せよ、ということだ。しかし、事実そんなことはできない。選択の分母自体が、本当は変化しているはずだからである。そのことを知らないものは、固定された分母=複製というモデルに捉われてしまう。
しかしモデルとは、その都度調整されるような柔軟体として捉えられるのではないか。その立場に関連するもう一つの溝は、情報はいかようにも捨てられ再構築されたにも関わらず、どうしても立ち所に複製され続けてしまうという偶有性である。先に述べたように、イデアに迫ろうとしても、選択肢の分母自体が変化してしまう。分母は複製され続ける。ならば、その変化する分母の変化メタパターンを掴むしかない。再構築されて捨てられていった痕跡を紡いでいくしかない。しかし、それでイデアを掴める訳ではない。ただ、掴み損ねた感じを、問題として置いておける。

選択性の困難は、「〜のようだ」と例える時、言葉の限界として現れる。選ぶ言葉と話す順番によって、限界がある。身体で感じて表現を増やしても結局言葉で話すので同じこと。
偶有性の困難は、例えて喚起される最初のイメージが、どうしても中身のないものとなってしまう問題だ。(そもそもイメージの最初は、図形のような抽象的なものとして現れる。映像などの具体的なイメージは、最後に現れる。)それは、ただ何かが「ある」としか言えないものなのである。しかし、自分の身体の輪郭が、その何かに「ある」と掴めるまさにその時、イデアに最も近づいていると言える。

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