「大阪は治安が悪い」

20世紀の日本では「大阪は治安が悪い」とよく言われていました。
実はこの言葉、大阪市の都市としての歴史の意表を突くあまりに深い言葉です。
江戸時代の大坂は各藩が徴収した年貢米を現金化する場所として発展し、都市規模が京と並びました。
一方江戸は参勤交代のため多数の武家が常駐させられており、すなわち富裕層が多い都市でした。そんな時に小氷期が訪れました。あまり知られていませんが江戸時代は半分くらい小氷期だったのです。
この時期、東北地方では言語を絶する大飢饉が頻発し、無数の労働力が豊かな江戸に流入し、幕府は「人返し令」という政策を実行して東北農民を江戸から何度も追放しました。
追放された東北農民は現在の埼玉、千葉や北関東にあたる関東平野に住み着き、江戸の人口と関東全体の人口が飛躍的に増えました。
一方関西は奈良南大阪、灘五郷などにも元から多数が住んでいました。それは鎌倉時代まで(平安時代まででないことに注意)租庸調という税金を農民が京に直接運ぶ制度があったため、それを苦にして京の近く、つまり関西の平地に大勢が移住したからです。
こうして江戸末期には関東と関西の大平地に日本人口の1割2割が住み、江戸が人口100万、京、大坂がそれぞれ30万という構図になりました。
その後明治維新が起きました。維新の英傑達は「江戸は関東平野の中央に位置する世界一の都市である。もし首都機能を江戸から外せばこれが廃れてしまう。一方大坂は首都でないのに今の繁栄があるため無理に首都にする必要はない」と言って首都を江戸に置き、東京と改名しました。
しかしこの維新英傑達の考えは完全に間違っていました。大坂は各藩が年貢米を売買するというのが都市機能の根幹であったため、それがなくなると都市としては終わりで、ただの府庁所在地でしかなくなるからです。そして実際にそうなりました。
大阪の衰退に慌てた明治政府は「府庁所在地」としての機能を強化することとし、現在の東大阪、南大阪、奈良にあたる「堺県」を大阪府に吸収させました。このうち奈良は江戸時代まで政府の支配が及んでおらず東大寺の荘園がほとんどであり、江戸時代には大寺院が大学の働きをしていたためいわば東大寺は現代の東大のような存在であり、東大寺の僧侶を中心に独立運動を起こして新大阪府から分離独立しました。
大阪市は「摂津国」という地域にありますが同じ摂津に開港地の神戸があるため国策として神戸を発展させるため摂津の半分は神戸を県庁所在地とする兵庫県に譲らざるを得なくなり、奈良独立で結局東大阪(河内国)と南大阪(和泉国)しか府に含まれませんでした。従って地元人口の多さを使って紡績産業などで産業革命を起こして横浜、名古屋、京都、神戸よりは多少多い人口を集めて六大都市に認定されましたが、江戸時代までのような世界都市からは完全に転落してしまったのです。
1920年時点で、横浜、名古屋、京都、神戸はそれぞれ60万人程度、大阪市は90万人、東京市は250万人でした。東京と大阪の人口比は江戸時代から変わっていないように見えますが、それは当時の東京市があまりに狭かったからで、当時既に市街地が周辺の郡部に広がりそれら地域をまとめた「大東京」という言葉がありました。大東京は現在の東京23区と完全に一致しています。ある出来事が起きて俗に大東京と呼ばれていた地域を合併してできたのが現在の東京23区だからです。
1923年になると状況は一変します。関東大震災で東京、横浜は壊滅し、30万人が名古屋に、100万人が大阪に移住しました。大阪市は人口200万を突破し、東京市を追い抜いて日本一の大都市となりました。しかし市民の半数は身のみ着るままでやってきた被災者であったため、大阪市の治安は極度に悪化し、富裕層は兵庫県や奈良県に高級住宅地を建設してそこへ移住しました。この時期私鉄の近鉄が自前で生駒山を貫く奈良=大阪トンネルを多数の死者を出してまで作ったのも、近鉄の株主が大阪市から奈良へ移住した富裕層達だったからです。兵庫の芦屋六麓荘もこの時期建設されました。ここは昭和まで日本一の高級住宅地とされていましたが、地価が東京よりずっと安いため見た目は現代でも圧倒的日本一です。
こうして20世紀の日本で常識とされた「大阪は治安が悪い」「大阪は(お互いに助け合う)人情の町」「大阪は大都市で、東京のライバル」「(江戸からやってきた)大阪人こそ真の都会っ子。(帝都復興事業で地方から集められた)東京モンは田舎者の集まり」という俗説が広まったのです。
大阪市は多数の被災者を受け入れたため東京同様スプロール現象(市街地が無秩序に郊外に広がること)が発生し、大阪市街が連続している周囲の郡部が「大大阪」と呼ばれるようになりました。
都市管理の観点からまず大阪市が大大阪を吸収し現在の大阪24区となり、次に人口で抜かれメンツを潰された東京が俗に大東京と呼ばれていた地域を合併し現在の東京23区になり、それ以外の区域変更は埋め立てを除いて未だになされていないのです。
この事実は、大阪市という自治体が被災者とその子孫を管理する意図を持って設置された自治体であると解釈できます。また東京23区は「大阪市に勝つ」ことだけを目的に当時大東京と呼ばれていた地域を適当に合併した自治体だと解釈できます。
そして東京市民は関東大震災でほとんど入れ替わってしまいました。東京を出たのは150万人程度でしょうが、そのあと政府が東京を復活させるためムチャな帝都復興事業をしたため空襲がはじまる寸前には700万人を数えるようになり、震災前からの住人は1割程度だったはずです。トドメに帝都復興事業とその後の東京一極集中政策は都内の持ち家に多額の相続税を発生させ、江戸っ子達は親が死ぬと家を売って相続税を払い、余った金で埼玉、千葉に広い一軒家を買うということをしました。
こうして江戸っ子は絶滅し、東京は「田舎者の集まり」になったのです。
それにしても、いくら大規模な帝都復興事業をしたと言っても震災から空襲までのたった20年間で500万人もどこからやってきたのでしょうか?それは東北です。
学術的ないわゆる小氷期は江戸時代に終わっていますが、その後も東北では言語を絶する飢饉が何度も起き、特にこの時期には酷い飢饉が起きていました。当時、政府が資本家の利益のため朝鮮や満州への投資を優先し、飢饉に苦しむ東北農民を放置していたことは社会問題となっていました。当時東北農民は朝鮮、満州の原住民より貧しかったのです。よって政府が帝都復興事業で労働者を大募集すると飢饉に苦しむ東北農民はこれに殺到しました。東北のお年寄りが関西弁を「上品」と表現することがあるのもおそらくこういった過酷な歴史が原因でしょう。
なお大阪24区と東京23区の数字が似ていることに理由はありません。大東京を合併した当初の東京市は35区だったからです。23区になったのは東京市と東京府を合併し、東京都に改変したとき東京市の区をそのまま都の特別区(市町村に相当)にするにはあまりに狭すぎたため、区は多少合併させられ数が35から23に減ったのです。
また、大阪に関東大震災の被災者が集まって大復活し、東京に飢饉に苦しむ東北農民が集まって大復活したというのは特別な話ではありません。大都市というものが一般に田舎で苦難に遭った無産階級が労働者として流入して形成されるものだからです。
そして現在「東北人が仙台、九州人が福岡に集まる。よって東京と福岡が2大都市になり大阪、名古屋は衰退する」とずっと言われています。しかし実際にはそうなっていません。
仙台、福岡は地方中枢都市なので確かに東北人や九州人を集めてはいますが、首都圏への流出も大きくさほど人口は増えていません。
逆に関西、東海や北関東は産業が集積しており、単純労働者でも首都圏同様一定の所得が得られます。よって外国人(アジア人)が流入しています。特に京都、大阪は世界都市なのでインバウンドによる経済的利益も東京と同程度得ており、本社機能の東京流出で衰退する一方だった都市機能が底を打ち経済的に復活しました。
また東北、九州は独身女性の流出によって合計特殊出生率が押し上げられる数字のマジックがあるため単純出生率はもっと低く、逆に独身女性が流入して数字上の合計特殊出生率を押し下げている東京、大阪の単純出生率は地方に比べてさほど劣っていません。特に大阪の単純出生率は高く、10年前と比較した出生数の低下率は東京、沖縄を超え日本一小さい割合に収まっています。
なお市区町村別で日本一単純出生率が高いのは東京の港区、千代田区、中央区です。これら3区は極端に地価が高いためわざわざここに住んでいる時点でいずれ家庭を持って子供2人設けることはほぼ確定しており、合計特殊出生率が2を割っている分は単に新しく独身女性が流入した分だからです。
東京都心3区の逆パターンが兵庫県と奈良県です。かつて大阪の富裕層がこの2県に移住して子供を設けていたため人口の割に出生数が多かったのですが、今はその流れが逆流して大阪市、吹田市のタワーマンションが人気になっています。従って大阪府の出生数の低下率が日本一小さいというのは兵庫と奈良から取り返した分が大きく、特に奈良県は合計特殊出生率も単純出生率も崩壊しています。
また三大都市圏と地方中枢都市はスケールが全く異なります。
例えば奈良県から大阪大学に通うのは普通のことで、大阪の通勤圏人口は1800万人とされています。首都圏は3700万人、名古屋圏は車社会で鉄道駅付近に人が集まる構造でないので、統計の取り方によって500万人だったり900万人だったりします。
一方で北九州市から福岡市の九州大学へは到底通学できません。福岡の通勤圏人口は250万人とされており、札幌200万人、仙台、岡山、広島がそれぞれ150万人です。
地方中枢都市はあくまで政府の出先機関が置かれた政治都市であるため、その地方を管轄する支店はそこに配置されますが大企業の本社が置かれたりスタートアップが盛んに行われる場所ではありません。理由は前述の通り通勤圏人口がそもそも100-200万人しかおらず都市規模があまりに小さいからです。産業に乏しいため単純労働者の所得は低く、例えば福岡県の最低賃金は奈良県と同じで、広島県をわずかに下回っています。これが近年では「外国人(アジア人)が流入しない」という人口効果となってボディーブローのように地方中枢都市を苦しめています。
何が言いたいかというと地方中枢都市はいくら成長してもそもそもの規模があまりに小さいため三大都市とは比較できないということです。福岡が大阪を抜くことは少なくとも今後500年はありえません。
それでは三大都市と地方都市を分けた要因はなんだったのでしょうか?たった100年前、関東大震災後に「大大阪」と持てはやされた大阪市は人口200万人で現在の札幌市と同じでした。三大都市と地方都市の違いは地形です。
良い例が福岡にある久留米附設という超進学校です。この学校は福岡、佐賀のいろんな場所から通えるため背景人口が大きく、超進学校になりました。
久留米は田舎ですが県内各地から通学可能なのです。久留米大学は進学校を作る前から医学部も持っていました。久留米大学は福岡/佐賀の各地から優秀な若者を集めて何かしようという意図を持ってあの場所に作ったのでしょう。
関東、東海、関西以外の日本はほぼ山で、小さな平地がポツポツ点在する構造をしています。よって福岡市や北九州市がいかに大都会で福岡県に500万の人口がいても、福岡市の特定の会社に通える背景人口、北九州市の特定の工場に通える背景人口は150万人とか250万人とかが関の山なのです。
一方東京、大阪、名古屋は1度その置かれた大平原の産業の中枢としての地位を確立すれば、大平原の各地から通えるように鉄道や道路が建設されて通勤圏人口が3700万とか1800万人に膨れ上がりました。
震災後200万人に膨れ上がった大阪市が単独で200を1800に増やした訳ではありません。元々大勢が住む大平原にあったから、一度成り上がると手をつけられない世界都市へ飛躍していったのです。
「福岡が大阪を超える」とすれば単独で250をせめて1000にはする必要があります(その頃関西の人口が1000万人まで減っているとして)。「今後500年は無理」と書いたのはこのことから推理して、仮にありえるとすれば最短で500年後だろうという意味です。
なお古代日本の中心は関西でした。それは当時の関東平野にカラカラの台地水浸しの湿地がそれぞれ広がっていて、田畑を作って大勢が住める環境ではなかったからです。つまり航空写真で見た関東平野は今と同じく日本最大であっても、実際に人が平地として有効活用できる範囲で関西に負けていたからです。
これを江戸幕府の伊奈氏という一族が指導して大工事を繰り返して、関東平野全体を人間社会に利用できるように大改造したのです。そこに飢饉に苦しむ東北農民が「人返し令」で江戸を追い出されて大勢住み着きました。
関西と大阪の人口が増えた理由は既に述べましたが、関東と東京もこのように訳があって日本人口の3分の1が住み着くようになって世界都市へ飛躍したのです。
したがって大阪(関西)や東京(関東)のような世界都市というものは並の国家以上の価値があり、「福岡が伸びてるからX年後に追いつく」といったことはありえないのです。
また「大阪は治安が悪い」というタイトルで私が伝えたかったのは大阪と福岡の違いではなく大阪と名古屋の違いです。
東海地方は経済規模では関西と張り合っていますし、名古屋市は人口や経済規模では大阪市といい勝負しています。
しかし名古屋は世界都市ではありません。
大阪市が狭いから統計上の規模が似ているだけで、実際の都会レベルには圧倒的大差があります。
つまり名古屋(東海)は大阪(関西)と同じ基盤はあったが、何者かが大阪を世界都市に押し上げ、名古屋ではそれがなかったからこの差が出たということになります。
その「何者か」こそ「関東大震災の被災者」です。
関東大震災の被災者が大阪を日本一の大都市に押し上げ、富裕層を兵庫や奈良に追い出して彼らにインフラを整備させたから大阪は世界都市として大復活したのです。
私は奈良出身ですが、子供の頃ずっと「大阪市民は標準語に近い話し方をする、東大阪と南大阪の人は奈良と同じ話し方をする」と思っていました。少なくとも私の子供の頃の大阪市には関東大震災の被災者が集まった形跡が残っていたのです。
ちなみに大阪市中央区はかつて東区と南区に分かれていました。関東大震災の被災者が大阪市にやってきて富裕層が芦屋などの郊外に逃げ出すまでは「東区出身」がステータスだったそうです。北区のタワマンが人気になっている現代は関東大震災前の価値観に回帰しています。
一方東京を世界都市に復活させたのは帝都復興事業でかき集められた東北農民です。
これが20世紀によく言われた「東京は田舎者の集まり」の言が最初言われはじめた頃の意図だったはずです。
昭和の大阪は職を失い犯罪も厭わない関東大震災の被災者が集まった「治安の悪い街」で、昭和の東京は飢饉に苦しむ東北農民が帝都復興事業に殺到した「田舎者の集まり」であり、彼らが現代大阪/現代東京の礎を作ったのです。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?