洛南、東大寺、西大和

関西圏ではおそらく
京都で洛星洛南東大寺
南大阪~奈良で大阪星光西大和東大寺
兵庫北摂は甲陽六甲神戸女学院、神大附属
が御三家的な私立名門でしょう。
これらは単に近い場所の名門校を3つまとめたものです。


一方タイトルの「洛南東大寺西大和」という並べ方は普通しません。これは受験用語です。 
兵庫の子供が灘甲陽を落ちた時、近場でいいなら神戸大附属とか高槻とか、須磨学園とかそこそこありますが、灘甲陽は落ちたけどどうしても一流と呼ばれるところに通いたいというニーズがあるため、奈良の学校群が大昔関西私立連盟を脱退して試験日ずらして灘落ちや甲陽落ち、大阪星光落ちを引き受けたのです。 京都の洛南もこれに続いたため灘落ちはラサール/愛光の寮から電車で通える洛南/東大寺へ民族大移動したのです。

奈良の中で東大寺学園は元から応名門校でした。当初は他の進学校と違って中学だけ作って全員奈良高校に進学させ、奈良県公教育の発展を目指していたのですが、奈良女子大がやってきて奈良女子大附属(女子大附属)との冷戦がはじまって東大寺は東大寺高校も設置、中学生を全員東大寺高に内部進学させパリバリの進学校に転換しました。
しかし当時は関西の私学は同じ日に入試するきまりでした。不合格者は公立か、ラサール/愛光の寮だったのです。しかし女子大附属は国立なので試験日がずれていて灘甲陽落ち、洛星落ち、東大寺落ちまで拾い放題で、県内で絶大な支持を得ていた東大寺学園をあっという間に追い抜いてしまいました。

多くの人は近所の名門校を目指しますが、この時既に灘ーラサールー愛光のゴールデンルートが広まりはじめており、近畿圏内で灘落ち拾う女子大附属の行為は国立の安い授業料も活かして灘落ちも地元上位も拾いあからさまに関西トップを目指す動きでした。国立なので下宿は禁止していましたが、実際は黙認していました。これは現在の東大寺学園も同じです。

また奈良県は元は大阪府で、県の大部分を占めていた東大寺荘園が主になって独立運動を起こし独立した県なので、奈良県民はみな奈良女付属の粗探しをし、東大寺を崇拝していました。

ここで奈女附が中学から高校にあげる時に大量放校をして日本一の進学実績を達成しようとしていることが判明し、灘率いる関西私立連盟は「せめて大量放校だけはやめてください」としつこく申し入れました。

しかしこれを飲むと女子大附属は確実に東大寺に負けるため、奈良女は灘に通えない南大阪の塾に開成に当時作らせた寮を斡旋しました。はじめこれは開成の許可を取っており、双方が合意していました。
しかし迷惑なのは東大寺です。遠距離通学者を狙った寮によるカツアゲは非常に成功率が高く、東大寺に来る南大阪人は開成落ちばかりになってしまい、東大寺は南大阪から通える場所から京都から通える場所へ移転しました。京都人は灘落ちと東大寺第1志望者が入り交じっており、これらは同レベル(灘上位には及ばない)ので東大寺は定員を他校と同じ220人に拡大してこれらを拾う代わり「打倒、灘」を諦めました。
灘と戦うには灘に通えない南大阪上位女子上位、そしてスパルタ寮を使い地方トップ層を沢山集める必要があります。当時の女子上位は灘生よりポテンシャルが低く、灘東大寺が共学化すると偏差値だけ上がり進学実績が落ちる恐れがありました。寮も好き勝手作れるものではなく教育界のコンセンサスが必要で、特にOBが多数の下宿を既に作っている灘は寮設置が難しい状況にありました。東大寺もまた奈良教育会を牛耳る奈良女子大と対立しているため寮設置は困難でした。
東大寺は兵庫県から通えないため兵庫県から近い洛南が兵庫灘落ちを引き受けました。
西大和は洛南東大寺に比べて新興勢力でしたが、優秀な高入女子が府立北野から移転してきて進学実績を挙げ、南大阪上位や寮生も少し集め、主に東大寺に通えない兵庫県の灘落ちを拾いました。当時の西大和中間層は残念ながら大阪星光落ちでしたが、星光落ちても西大和にかかればセーフ(上澄み)という空気が当時からあり、その原因は当時府内公立がグダグダで優秀女子が府立北野より当時の西大和高を優先していて彼女らが内部生以上に戦力となり進学実績を大阪星光と同等まで押し上げていたからでした。初期西大和にもし高入女子がいなければ今日のような超進学校にはなりえなかったでしょう。

中受に話を戻すと、ラサールの灘落ち洛南/東大寺が、開成の南大阪人と愛光の甲陽星光落ち西大和が「泥棒」したのでこの3校はよく成り上がりの「泥棒学校」と言われ、東大寺など元から規模は小さかったものの一応灘、筑駒に並ぶ超進学校であったのに、世間的にはラサールから灘落ちを80人奪って巨大化した成り上がり校と認識されてしまっています。

まとめると、灘甲陽落ち南大阪上位は昭和時代ラサール寮開成隠れ寮へ行っていましたが、それを泥棒して内部生の人数を大幅に増やし、公立復権による高入削減を進めたのが「洛南東大寺西大和」ということです。実際は受験生はこの3校を自宅からの距離で選んでいました。兵庫県民は洛南西大和、大阪府民は東大寺、など。
しかし京阪神の塾は洛南東大寺をラサールの後釜西大和を開成/愛光の後釜として受験コースのラインナップに配置しました。もし西大和を洛南東大寺並に持ち上げると、西大和は南大阪上位も通えるため単独関西No2に浮上し、南東方面の子供が灘志望から西大和志望となり塾は灘中合格者数を大きく減らすからです。

しかし大阪/京都上位を全て東大寺に取られる洛南はあまりに灘甲陽落ち兵庫県民に依存しすぎており、いずれ兵庫県に神大附のような新興共学が育ったり、兵庫から通える西大和が中学も共学化すれば一貫の終わりでした。
そこで洛南は先手を打って共学化し、ライバル東大寺に決戦を挑みました。この期間洛南は灘落ち男子と京阪神女子上位を独占し、鉄(中高生が通う塾)でも最大勢力で偏差値、進学実績共に東大寺と並んでいましたが、神大附の成長や西大和共学化で洛南の「お鉢」は全て両者に奪われ主力の灘甲陽落ちも神大附および共学化した西大和と復活した東大寺に食い散らかされました。
その代わり女子のトップ校が奈良南部の西大和に定まったことでイレギュラーが起きました。
西大和は大阪奈良の女子上位こそ独占しましたが、遠距離通学を嫌がる女子は京都では洛南兵庫では神戸女学院(神大附)を支え続けたのです。
関東で筑駒が南にあるから北の方で開成渋幕が栄えるのと似た現象です。塾も京都や兵庫で女子生徒を募集するため、洛南女子、神戸女学院を西大和女子と同列に並べて華形扱いしています。関東の塾が埼玉千葉の児童を集めるため開成渋幕を華形扱いするのと同じです。

ここにきて西大和が「南大阪上位」「大阪女子上位」「兵庫灘落ち」という東大寺カバー外の三種の神器を揃えてしまいました。
さらに西大和はで名古屋や岡山、関東から毎年50人集めて猛烈なスパルタ教育で寮だけ灘水準の進学実績を出しているため、これら全てかき集めた世代が1浪を迎える2029年には東大寺の地元上位が西大和に民族大移動することが確定しています。

それでは西大和はかつて洛南を倒したように東大寺も倒してしまうのでしょうか?
私は東大寺学園においては「首都圏現象」が起きると予想しています。
洛南と西大和は距離的に離れているため洛南が上位を独占していた女子も灘甲陽落ち男子も共学化した西大和にマルっと泥棒されてしまい、洛南の偏差値は暴落しましたが、東大寺と西大和は首都圏のライバル校に近い位置関係であるため首都圏で起きたような「偏差値インフレ」「生徒の輪切り化」がここでも起きると私は予想しています。
まず、西大和は共学化以来高入を150人に増やし、寮生の増加に伴って高入を減らして高校定員を保っています。西大和は他地方女子校との癒着を隠す必要から寮生について嘘のデータを発表していますが、さまざまな観察によると近年は毎年50人近い寮生を受け入れているようです。西大和当局もこれを実質認めており、高入募集数を寮生増加分と同じ20人減らしました。
2029年以降西大和が東大寺を大きく上回り関西単独no2となり、他校から奪った優秀者を使って東大3桁を安定させれば、まず間違いなく寮生は今の50人よりさらに増えます。一方東大寺は高入を最近廃止し高入募集で西大和と競合することはなくなりました(かつての東大寺高入40人は全て西大和高入に移転し、その分西大和高入下位が公立へ行く)。
すなわち共学化後の西大和高入は過大人数に見えますが東大寺を抜く頃には自然と解決し、寮生の増加東大寺からのプレゼントで西大和高入は(2013年以前の)男子校時代と同じ人数に減ると既に確定しています。よって現在戦力外とされ授業も分けられてしまった高入は再び少数精鋭に戻り、内部生に近い進学実績を再び出すようになると確定しています。少なくとも府立北野に蹴られている今よりは大幅回復するはずです。
従って、西大和は高入を廃止して「東大寺丸呑み」をする必要はなく、高入を元の少数精鋭に戻せます。
従って東大寺は西大和に抜かれても奈良東大阪の上位が西大和へ移転し、彼らに追い出された西大和内部生下位が東大寺上位と交換されるだけです。
東大寺と西大和男子は同じ偏差値なので、東大寺上位と西大和下位を交換しても東大寺の偏差値は微動だにせず、ただ西大和のボーダー偏差値が上がるだけです。しかし東大寺は地元上位を西大和に取られるため進学実績は悪化します。偏差値だけバカ高い東京の麻布や豊島岡のようになるということです。私が「首都圏現象」と呼んだのはこのためです。
しかし首都圏現象を甘く見てはいけません。現に首都圏で麻布や豊島岡は高く評価されています。
東大寺についても、京都からは西大和に通えませんし東大寺は洛南、洛星より遥かに高い偏差値を維持することになります(西大和落ちのお陰ですが)。よって京都では東大寺学園はちょうど麻布、豊島岡のようにずば抜けた偏差値を根拠に往年と変わらぬブランド力を発揮するはずです。つまり、現在の西大和が実質南大阪の学校であるように東大寺は京都の学校となり、京都上位では埋まらない定員は灘落ち、甲陽落ち、西大和落ちで十分埋まって現在と同じ傑出した偏差値を維持するはずであるということです。
おそらくかつて灘落ちを独占していたラサールが人々の記憶から薄れてきたからか、近年の東大寺は西大和に抜かれつつあるのに知名度は逆にアップしており、10年代末から母子引越しや新幹線通学で毎年名古屋圏の生徒が約10人入学するようになりました
従って東大寺は地方都市でよく見られる「〇〇に取って代わられる」学校ではなく、圧倒的ブランド力偏差値でまるで大学の学歴(例えば開成卒は大学の学歴のように評価されますよね)のような求心力を発揮して麻布みたいな形で生き残ってゆくと予想されます。麻布はすぐ北に開成、南に聖光がありますが東大寺は京都、滋賀に敵無しなので麻布より恵まれているかもしれません。また麻布は開成落ちをもらえませんが、東大寺は西大和落ちを供給されるため西大和に地元上位を取られてもボーダー偏差値は変わらず、西大和に通えない京都を引き続き領土として維持できます。
ただし、繰り返しますがこれはあくまで「首都圏現象」です。2029年以降の東大寺学園は地元上位を西大和に取られているため昭和時代のように灘、筑駒と争う隠れた天才集団には二度と戻れません。
東大寺は栄光、麻布よりやや高い進学実績と偏差値、知名度および名古屋圏からの遠距離通学者に支えられて、「隠れた天才集団」から「ブランド校」への業態転換は避けられないでしょう。
しかし隠れた名店、名所、穴場が徐々に知られてブランド化するというのはあらゆる分野において起きています。中受では早稲アカsapixの灘遠征ツアーが年々大規模化し、民間企業が灘下宿に参入までしました。灘の高入合格者数TOPの塾が毎年福岡の塾であることも、その実態以上に日本人の心に「灘校」というブランドが染み付いてしまったからです。
東大寺学園や麻布は進学校としてはかなり恵まれた部類だと思います。


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