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他者を理解するということ

「他者を理解する」

この言葉は、私には重い。多分これから先もずっと。その重さを忘れないようにしたい。そう感じた。

この記事では、Twitterでお世話になっているほそみさんが著者の一人として出版されている書籍、「人類学者は異文化をどう体験したか」を読んだので、簡単に感想を書こうと思います。

(読んだのはまだほそみさんの章だけです。ごめんなさい...)

この本は16名の人類学者の方たちの文章を集めた形でできています。ほそみさんは現在は企業の人事担当。ほそみさんの章は「他者像を完成させない」というタイトルで、「他者理解」について書かれていました。

内容の詳細については、あまり触れません。ベトナムやウガンダでの、自身の理解の枠組みから外れた方たちとの出会いを通して、ほそみさんが学ばれたことが綴られています。

その中で印象に残った文を一つ抜き出します。

”他者を理解するという行為は、ある時点で完了するものではない。”

これは実に私自身の考え方にもマッチしていました。

ほそみさんは、それゆえに「自分の中での他者像」を完成させないことが重要と書かれています。これもとてもうなずけます。

では、そもそも「他者を理解する」というのはどういうことなのでしょう。ここからは私の考えです。

まず、私は「理解」とは双方向のものだと思います。人間は、自分が十分に理解していない相手に手の内を晒したりはしない場合が多いと考えます。赤の他人にいろいろ質問されて、自分の深いところを晒す人がいるでしょうか。

なので、他者理解には双方向のコミュニケーションが必須です。もう少し言えば、「相手を理解する」前に、「相手に理解してもらう」ステップを踏む必要があります。

続いてもうひとつ。第三者の考えを聞く、ということです。

人間は自分で自分のことはよくわかりません。ある人が「私は○○な人間です」と言っていたとしても、それが事実とは限りません。他の人から見たその人は全く違うかもしれません。少しでもよく理解するためには、第三者の目が欠かせないと思います。

双方向のコミュニケーション。第三者の目。もちろん他にもいろいろあります。ですがこれくらいで、割と分かった気になりがちです。

最も大事なポイント。これこそがほそみさんも本の中で書かれていたことに通じます。他者を「理解した」気にならないことです。

自分の理解の枠に、無理やり相手を押し込んでしまうのはありがちです。相手の性質がなんとなく浮かび上がってきたとしても、常に「そういう一面もある」くらいの捉え方にすることです。

どんな人にも必ず、見えない部分があります。よく、氷山の絵で表されますね。たいてい、見える部分より見えない部分の方が圧倒的に大きいもの。本人さえも気づいていないことがたくさんあります。

特に人事という仕事をしているとつい、人のことを分かったような気になりがちです。大前提として、「人のことが分かる」などあり得ない。そういう考えを大事にしたいです。

ちなみに本書は「異文化」がキーワードになります。それでいくと私も最近では留学生の方を採用し、会社に迎え入れる仕事をしたりもしています。上に書いたようなことも大事ですし、つくづく心理的安全性の重要性を通貫します。

日本の会社に入ってくる外国籍の方にとって、自分のルーツになる文化を主張するのは時に気が引けるもの。しかし言ってもらえなければこちらも知りもしないことも、たくさんあります。そのためにも上に書いた双方向のコミュニケーションは重要です。そしてそれをどれだけ心理的安全な環境で行えるかが問われますね。

以上です。


(追記)

しかし上に書いた通り、他者は理解できないという前提に立ち、それでも合否を下さねばならない採用面接というのはなんとも、恐ろしい仕事であると感じますね。どうも最近面接が多かったせいか、短時間で人のジャッジをしてしまう感覚が麻痺していたかもしれません。そこを引き締めなおしてもらえて良かったです。

おわり


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